20人が本棚に入れています
本棚に追加
「辺境伯様、この度は、突然のことにもかかわらずお力をお貸し下さり、本当に、なんとお礼を申し上げて良いか……私は、フェルゼンシュタイン伯爵家の長女、コンスタンツェ・フェルゼンシュタインと申します。馬車とお部屋をお貸しいただけたこと、心より感謝申し上げます」
質素な白いドレスを身に纏ったコンスタンツェは、辺境伯がその部屋に入ってきた時から丁寧に頭を下げていた。
胸まである銀色の波打った髪は柔らかで艶があり、鮮やかな空色の瞳が納まった円らな眼とふっくらした桃色の唇が愛らしい令嬢であった。
貴族らしく華奢な骨格ながら、豊かな肉付きの肢体は17歳という年齢に不相応なほどである。それでいて凛とした佇まいに気品があった。
バスラーの救助要請を受け入れたこの城の主であるヴェルゴートは、すぐに馬車を派遣してコンスタンツェとその供のゲープハルト夫妻を城へ迎え入れた。
城へ着いて早々、応接室へ招かれたコンスタンツェは、机を挟んで、椅子にどっかりと腰を下ろすヴェルゴートへ感謝の意を述べたのであった。
「当然のことをしたまでだ。どのような噂を聞いているか知らぬが、顔を上げてくれ」
地を這うような低い声でニコリともせず答えたのは人嫌いの辺境伯である。
短い黒髪に鷲鼻、吊り上がった三白眼は威厳のある黒い瞳、太い眉、顎髭を蓄えたがっしりとした輪郭の厳めしい顔立ち、厚手の上着を着ていても分かる筋骨隆々とした熊のような大男とくれば、見る者に畏怖を与える姿である。
そんな辺境伯に物怖じせず、コンスタンツェは顔を上げて微笑みかけた。
「人の噂など、どれ程のものでございましょう。こうしてお助けいただけたことだけが十全な事実でございます。本当に、ありがとうございました」
そう言って顔を上げたコンスタンツェの笑顔を見て、ヴェルゴートはサッと青ざめて目を見張る。
「ニーナ……」
思わずといった様子で溢した彼の言葉に、コンスタンツェは息を飲んだ。
「やはり母を、ご存じなのですね」
意を決したようにヴェルゴートへ問うコンスタンツェの眼差しは、どこか苦し気である。
ヴェルゴートは、目を閉じて一つ深い溜息をついてから、再びコンスタンツェを見遣った。
「『やはり』ということは、ある程度、事情を知って私を訪ねてきたということか」
ヴェルゴートは鋭い眼差しでコンスタンツェに問うた。
「はい。偶々、崖崩れに遭いましたが、元からシャルフェンベルク辺境伯様の元をお訪ねする予定でした。母について、お尋ねしたくて」
並の者ではそれだけで竦み上がってしまいそうなヴェルゴートの眼光を真正面から受け止めてなお、コンスタンツェは真っ直ぐに相手の目を見返して答えた。
「物怖じしないところまでそっくりだ……ああ、もうこんなに大きくなったのだな」
ヴェルゴートは、一度目を伏せてから絞り出すようにコンスタンツェへ言った。
「やはり母を、私を、ご存じなのですね! あの、どうか、母の話を……!」
勢い込んで言うコンスタンツェを手で制して、ヴェルゴートは唸った。
「まあ待て、そう逸るな。話せば、長くなる」
ヴェルゴート自身も心の整理がつかないようで、その言葉には戸惑いがうかがえる。
「今日はもう遅い。食事と寝室は用意させるが、話は明日だ」
ヴェルゴートは有無を言わせぬ物言いで、じろりとコンスタンツェを睨んだ。
「私としたことが、気が急くあまり大変失礼をいたしました。ご配慮、感謝いたします」
勢いで尋ねたことをコンスタンツェは謝罪した。
「構わん。明日の朝食が済んだら、ここへ来るがいい。話をしよう」
目を合わせることもなく答えたヴェルゴートであったが、話を許可した。
「ありがとうございます。御厚意に預からせていただきます」
そう答えるコンスタンツェに、ヴェルゴートは黙って頷いた。
翌朝のことである。
朝食を済ませたコンスタンツェとその供二人は、応接室にてヴェルゴートに向き合っていた。
「それで、何から話を聞きたい? 午後に国内視察中の第二王子、ディートフリート殿下ご訪問の予定があるため、なるべく手短にとは思っているが」
ヴェルゴートの低く大きな声と鋭利ささえ感じる程の眼光は、それだけでその場を制圧出来そうな程であった。
「私の母――ニーナ・フェルゼンシュタインについてご存じのことを、お教えください」
それにも怯まず、コンスタンツェは辺境伯を見つめ返す。
ヴェルゴートはしばらく無言であったが、その真っ直ぐな眼差しに耐えかねたように、目を伏せた。
「お優しい、方だった」
ぽつりとこぼしたのは、その厳めしい顔に不釣り合いな程優しく、悲しい声であった。
「やはり貴方は、母を、愛していらしたんですね?」
コンスタンツェがその様子を見て、意を決して尋ねると、ヴェルゴートは自嘲を浮かべた。
「君がどの程度、彼女のことを知って私を訪ねてきたのか知らぬが――おそらく、君の想像は概ね正しいだろう」
先程の声音が嘘のように冷ややかな声で、ヴェルゴートはコンスタンツェを見据えて言った。
「では、母が亡くなったのは……!」
「私が、殺したと言って差し支えない。君には、その隠し持った短剣で私を殺す権利がある」
淡々と答えるヴェルゴートと対照的に、コンスタンツェは衝撃に目を見開いて震えている。
ヴェルゴートが母親の仇であったこと、それを簡単に白状したこと、隠し持った武器について気づかれていたこと、その何もかもが彼女の心に突き刺さる。
「ただ、最後に、彼女の話をさせてくれ。これが贖罪になるとは露ほども思わぬが、君にはそれを知る権利があるだろう――“伯爵家の汚点”と呼ばれた、ニーナ・フェルゼンシュタインの娘として」
ヴェルゴートの言葉に、コンスタンツェは顔を真っ赤にして唇を震わせた。
「母は、本当に、そのような汚名を着なければならない人だったのでしょうか……」
ドレスを握り締めて、コンスタンツェは苦し気に尋ねた。
「父と結婚しておきながら、使用人の男と駆け落ちして、その男に殺された、自業自得の馬鹿な女だと……私は父からそう聞かされて育ちました」
コンスタンツェの目に宿るのは、憎しみの色である。
「対外的には、母の死は崖崩れに伴う不幸な転落死とされました。しかし、ただでさえそんな女の産んだ子供のうえ、私は母に生き写しの姿です。後妻を迎え、その間に男の子を設けた父は、私を穢れた売女の娘と蔑んで育ててきました」
伯爵令嬢が着るにしては質素なドレスは、旅程のためではなく、本当にこのような服しか与えられていないためであった。
「いかにもあの男が言いそうなことだ……虫唾が走る」
怒りを隠しもせず、ヴェルゴートは吐き捨てた。
「そのため私は、屋根裏部屋で育ちました。ただ、幸か不幸か、父は体面を気にする性質で、私の母は不遇な事故で亡くなったことになっていましたから、私を修道院へ入れたり、表立って虐待をしたりするようなことはしませんでした。どこかの有力貴族に嫁いで、せめて家の役に立てと……そのように育てられました」
美しい容姿と品のある佇まいの裏にあった苛酷な理由に、ヴェルゴートは顔をしかめる。
「そのように、辛い思いを」
気遣わしげなヴェルゴートの言葉に自嘲的な笑みを浮かべたコンスタンツェは、首を横に振った。
「幸い、私には心から私のことを思ってくれるバスラーとデリアがいましたから、この程度、辛いとも思いませんでした」
コンスタンツェは後ろに立つ二人を少し振り向いて笑みを浮かべれば、二人の使用人は後ろで涙を拭った。
「ですが先日、社交界で母の駆け落ちの噂が広まってしまい、決まりかけていた私の侯爵家との婚約が白紙になってしまいました。こうなってはもう、私の結婚は絶望的で、そうなれば父に私を養う理由はありません。私は勘当を言い渡され、家を追い出されたのです」
コンスタンツェは、淡々と悲壮な身の上を述べた。
「なんと、そのようなことが……!」
怒りに震える声で、ヴェルゴートは言う。
「そして、家を出るために身の回りの整理をしていたところ、母の日記が、棚の裏から見つかったのです」
そう言って、コンスタンツェは脇に置いていた一冊の本を差し出した。
「母が嫁いだ当時の使用人の一人に、先代のシャルフェンベルク辺境伯の隠し子がいたと書かれていました。そして、その使用人の身の上は、母とその使用人だけの秘密だったと」
空色の瞳が、強い意志を持ってヴェルゴートの三白眼を捉える。
「その使用人の名前は、ヴェルゴート――辺境伯様、貴方のお名前ですよね?」
コンスタンツェの質問に、ヴェルゴートは黙って頷いた。
「この日記を読む限り、母と貴方が親密だったことは確かです。でもそれは、姉弟のような親密さであって、とても駆け落ちをしそうな関係には思えませんでした。なぜなら、この日記を読む限り、母は心から父のことを愛している様子だからです。もし、父が駆け落ちだったと思い込んでいるのだとしたら、母は何らかの理由で父に黙って貴方と屋敷を出て、殺された可能性があることになります」
コンスタンツェはシャルフェンベルクを見据えたままドレスの裾をたくし上げ、右の太腿に巻いていたベルトから美しい装飾の施された銀色の鞘の短剣を取り出した。
「私の不遇だけならまだ構いません。でも、父を本当に愛していた母が殺され、言われなき罪で貶められなければならなかったこと……私は、それが許せないのです!」
コンスタンツェは、復讐心をその目に燃やしながら声を張り上げた。
「貴方は、母を愛していた。でも母は父を愛していて、貴方に振り向くことはなかった――だから、母を、殺したのですか?」
激情を押し殺したような静かな声で、コンスタンツェは告げ、短剣を鞘から抜いた。磨き上げられた刃が、柔らかな午前の光を反射して光る。
「70点、と言ったところだな」
刃を抜かれてなお不遜な態度で、ヴェルゴートは答えた。
「ニーナのことだ、その日記には美しい思い出しか書かなかったのだろう」
「どういうことですか?」
ヴェルゴートの昔を懐かしむような言葉に、コンスタンツェは訝し気に眉をひそめた。
「では、私からは、ニーナがその日記に書かなかったであろうことを、話そう」
居ずまいを正して、ヴェルゴートはコンスタンツェに向き直る。
「あれは、20年前のことだった――」
ヴェルゴートは、重々しく、口を開いた。
最初のコメントを投稿しよう!