2話

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2話

 あれは、20年前のことだった。  君の母親であるニーナが17歳でフェルゼンシュタイン伯爵家へ嫁いできた時に、私もちょうど伯爵家の使用人として雇われたのだ。  私は、先代のシャルフェンベルク辺境伯が貴族ですらない市井の娘に産ませた隠し子で、母は女手一つで私を育ててくれていた。  しかしある年の冬、母は流行り病で亡くなってしまったのだ。  母は亡くなる前に、私が貴族の血を引く人間であることを教え、その証であるシャルフェンベルク家の紋章入りの首飾りを持たせてくれた。  そして母は、自分が亡くなったらシャルフェンベルク家に行くよう伝えたのだが、私は、とても受け入れてもらえるとは思えなかった。  認知してくれるとも思えぬ貴族をあてにするより、自分で働いて生計を立てることを望んだ私は、たまたま人員を募集していた隣町のフェルゼンシュタイン伯爵家の庭師になることを選んだ。仕事は大変だったが、衣食住が足り、いくらかの給金がもらえるだけで十分だった。  貴族の血を引いているため万が一のためと母が考えていたせいだろうが、幼い頃から読み書きを教えられていた私は、園芸の本なども読めたためにすぐに腕を上げ、翌年には育成の難しいバラ園の管理を任されるようになった。  そのバラ園で、ある日、肌身離さず身につけていた母の形見であるシャルフェンベルク家の紋章入りの首飾りを、知らぬ間に落としてしまったのだ。  私は焦った。そんなものが伯爵一家に見つかり、それを返すよう頼めば、盗品と思われて職を失う未来しか見えなかったからだ。  しかし幸いなことに、それを拾ったのはニーナだった。 「庭師さん、これ、貴方のもの?」 「ああ、そうです! 母の形見で……! ありがとうございます!」  よりによって紋章の意味が分かるであろうニーナに拾われて声を掛けられた時は、もう終わりだと思ったが、それ以上に母の形見が見つかったことに安心して、思わず駆け寄って受け取ってしまったのだ。  ニーナはそんな私を見て驚いていた。 「貴方、その紋章の意味、もしかしてご存じないの? お母様から何か聞いていらしてなくて?」  ニーナは聡明で、優しい人だった。  落とし物によって、すぐに私がシャルフェンベルク家の隠し子だと気づいたのだろう、すぐ心配そうに尋ねてくれた。 「存じております。その上で、この仕事を選びました。これまで16年間貴族とは無縁の生活を送ってきて、今更になって母を捨てた父を頼ろうなどとは、露ほども思いません」  私が苦笑してきっぱり答えれば、ニーナは信じられないように目を丸くした。 「そう。そういう生き方も、あるのね」  感慨深そうにまじまじと私のことを眺めたニーナは、すぐににっこりと笑った。 「私は、この家に嫁いできたニーナと言います。庭師さんのお名前は?」 「俺は、ヴェルゴートです」  恭しく一礼して答えれば、ニーナは小さく笑った。 「年も近いし、よろしくね、ヴェルゴート」 「いけません、奥様。使用人と軽々しく口をきいてはレオンハルト(旦那)様に叱られてしまいます」  握手の手を差し出すニーナに、私は慌てて注意した。 「あら、いけない。そうだったわ。爵位をお金で買ったような男爵家から嫁いできたから、まだ自覚が足りないってお義母様やレオンハルト様からもお叱りを受けてしまうことがあるのよね。ありがとう、気を付けるわ」  ただの庭師の注意も素直に受け入れ、礼を言うなどという奇特な伯爵夫人に、私はその時大変驚いたのを覚えている。 「いえ、出過ぎたことを申しました。大変申し訳ございません」  慌てて頭を下げて謝罪すれば、ニーナの方がよほど驚いたようだった。 「ええっ! そんなに畏まらなくていいのよ、貴方、間違ったことを言ってないじゃない」 「いやしかし、使用人が貴族の方に注意するなど、普通はクビにされても文句は言えないことで……」  私が説明すれば、ニーナは首を傾げた。 「貴方も貴族の血を引いてるのに?」 「奥様、それはどうぞご内密に!」  誰かに聞かれてはたまったものではない。慌てて制すれば、ニーナは楽し気に笑った。 「分かったわ。じゃあ、貴方の身の上は黙っておいてあげるから、たまに息抜きでお話しするのに付き合ってくださる?」 「命じられて、使用人に拒否ができるわけがありませんよね?」  お嬢様らしい我儘を突き付けられて、私は軽く眩暈を覚えたものだ。 「まあ、そうとも言うわね。あと、息抜きの時は気軽にニーナと呼んでちょうだい。敬語も要らないわ」 「えっ、そんな無茶な……」  私の戸惑いもどこ吹く風と笑い飛ばすニーナは、私にはとても楽しそうに見えた。  その件があってから、バラ園でニーナに会うと世間話をすることになった。  大抵の場合、いかに夫のレオンハルトが素晴らしい人で、どれ程自分が彼を愛しているかという惚気話を、ニーナが一方的に捲し立てていて、私はバラの世話をしながらそれを聞くのだった。  かなり身分差のある結婚で、『成金の男爵令嬢を見初めて、きちんと伯爵家の人間として振る舞えるように教育もつけてくれるなんて、なんて素晴らしい方!』というのが、彼女の決まり文句だった。  ニーナに憧れを抱いてもいたが、出会った時にはもう伯爵夫人で、端から恋仲になりたいなどとは思いもしなかった。  ただ、彼女のキラキラした幸せを見守ることだけが、私の幸福だった。  そしてニーナが18歳の時、(コンスタンツェ)を身籠ったのだ。  子供が出来たと分かったときのニーナの喜びようといったら、興奮しすぎてかえってお腹の子に障るのではないかと思う程で、本当に大好きな人の子を授かったということが、嬉しくてたまらないという様子だった。  しかしその一方で、その夫のレオンハルトにはどうにも別に女が出来たのではないかと噂されるようになっていた。  子供が出来たと分かった頃から、レオンハルトの帰りが遅くなることや不自然な外出が増え、使用人たちの間でも女の気配がすると話されていた。 「ねえヴェルゴート、やっぱり、身重の女は、殿方にとって負担なのかしら」   ある日、体調管理のための散歩がてらバラ園に来たニーナは重い溜息と共に言った。 「何を言うんだ、旦那様だってお子を授かったことをとても喜んでいたじゃないか」  夫の浮気について何か思い当たる節があったのか、突然そんな話を振ってきたニーナに、私は少なからず動揺した。 「そう、よね。最近、お仕事がお忙しいみたいで、なかなかレオンハルト様にお会いできないし、実家の商会もちょっと上手くいってないみたいで、気弱になってしまって……でも、こんな辛い時こそ、前を向いて笑顔でいなくっちゃね。レオンハルト様は私の前向きで明るい所が好きって言ってくださったのだもの」  ニーナはどこまでも健気に笑って言った。  私はそれを見て、胸が締め付けられるようだった。こんなに一途に愛されていながら、他の女にうつつを抜かすレオンハルトに怒りを覚える程に。 「ああ、ニーナには笑顔が似合うよ。旦那様もお仕事が落ち着いたら、またニーナとの時間が取れるようになるさ」  それでも、それはおくびにも出さずにニーナに微笑んで言った。少しでも、ニーナの不安を和らげたかったのだ。 「そうよね。じゃあ、私は愛しのレオンハルト様の疲れを癒してあげられる、そんな妻でいなくっちゃね!」 「ああ。とはいえ、今はニーナとお腹の子の健康が何より大事なんだから、お医者様の言うことをよく聞いて、あまり無茶なことをしないようにな」 「ええ、重々気を付けるわ」  肩をすくめてニーナが苦笑するので、私もそれを見て笑った。  しかし、その後もレオンハルトの不在は増す一方で、どうにも不倫相手は他の伯爵家のご令嬢らしいという噂を耳にするようになった。  更に悪いことは重なるもので、ニーナが臨月に差し掛かる頃、ニーナの実家は彼女の兄が継いだ商会の経営がさらに悪化していて、金回りが悪くなっていた。それに伴うように、フェルゼンシュタイン伯爵家の人間はニーナに冷たく当たるようになったのだ。  要するに、ニーナは身分差の大恋愛による結婚ではなく、金目当てに格下の家の娘を娶っただけだったというわけだ。  実家の金回りの悪くなった今、ニーナを正妻に据えておく義理はない。だから、ニーナを離縁して伯爵家のご令嬢と再婚するのでは、という胸の悪くなるような噂が、使用人の間でまことしやかに囁かれていた。 「もし、そんな話が旦那様や大奥様の耳に入ったらどうするんだ。滅多なことを言うな」  食事の時間にその噂話が出てきたので、俺は話してきた御者助手のアルバンを注意した。 「ヴェルゴートは真面目だなあ。俺は奥様が可哀想で見てらんねえよ」  ニーナはその育ちゆえに使用人にも優しく、レオンハルトへの愛の一途さは使用人一同も知るところだ。  そのため、アルバンに限らず、最近の立場の悪さを嘆く者は多かった。 「まあ、お子が無事に産まれりゃあ、多少は丸く収まるだろ。誰だって自分の子は可愛いもんだ」  御者のフリッツがどちらを諌めるでもなく希望的観測を述べるので、俺もそれに頷いた。  使用人の誰もが、無事にお子が産まれて、レオンハルトの愛がニーナに戻ってきてくれることをただ願うばかりだった。  そして、ニーナは無事に出産し、ニーナにそっくりの愛らしい娘――コンスタンツェが産まれた。  産後の肥立ちもよく、母子ともに健康に過ごしていたのだが、伯爵家としてはその何もかもが気に入らなかったらしい。  『産まれた子が男ではないなんて』『身分の低い男爵家の母親似なんて』『出産の際に死んでしまえば後腐れなく後妻を迎えられたものを』等、特にレオンハルトの母親である大奥様からの罵倒はひどかった。  それでもニーナはレオンハルトの愛情を信じて、気丈に振る舞っていた。  傍から見ればもうレオンハルトの愛など皆無に等しかったが、それでもニーナは信仰にも似た夫への愛を持ち続けていた。その想いは悲しくも、心を打たれる程、美しかった。
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