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そして、ある嵐の夜、当時1歳になったばかりのコンスタンツェが酷い熱を出した。
屋敷に医師は常駐しておらず、レオンハルトも不在にしていて、屋敷には大奥様とニーナと使用人しかいなかった。
「お義母様、どうかお医者様をお呼びください! コンスタンツェが、酷い熱があるのです!」
「うるさいわね! そんな赤ん坊、とっとと死んでしまえばいいのよ! この嵐の中、馬車なんか出せるわけがないでしょう!」
「そんな……お義母様、お義母様っ!」
ニーナの叫びも虚しく、大奥様はニーナの願いを聞き入れるどころか、はねのけて自室に籠ってしまった。
そして、その騒ぎは使用人達の部屋にまで聞こえ、一刻も早く赤ん坊を医者に診せねばという思いから、私は同室の御者助手であるアルバンを叩き起こした。
「どうしたんだ、こんな夜中に」
アルバンは驚き半分怒り半分といった様子で身体を起こした。
「お嬢様が、酷い熱があるらしい。でもこの嵐で大奥様が馬車を出すのを禁じている」
俺が説明すれば、たちまちアルバンは目が覚めたようだ。
「はあ!? 孫を見殺しにしようってのか!?」
「見殺しどころか『とっとと死んでしまえばいい』そうだ」
聞いたことをそのまま伝えれば、アルバンは信じられないというように目を見開いた。
「なんだよそれ! 分かった、緊急事態だ。俺が馬車を出そう。事情が事情だし、御者さんには後で俺が叱られてやるよ」
根っからのお人よしでニーナの大の味方でもあるアルバンは、一も二もなく俺が彼を起こした意図を汲んで、すぐに外出着と外套に着替えた。
こっそり使用人室を抜け出せば、大奥様の部屋へ向かう廊下の辺りでコンスタンツェを抱いたニーナと鉢合わせた。
「貴方達、こんな時間にどうしたの?」
この時間に外套で廊下を歩く私とアルバンを見て、ニーナは驚いたように尋ねた。
「奥様、お静かに。我々が馬車を出します。お嬢様を、お医者様に診せに行きましょう」
辺りを憚りつつ小声で答えれば、ニーナは泣きそうに顔をゆがめた。
「まあ、本当!?」
喜びを必死に抑えた小声で、ニーナは確認した。
「はい、お嬢様の一大事ですから。俺達の首が飛んだって、お嬢様の命の方が助かれば、そっちの方がずっといいってもんです」
アルバンは軽口を叩いてニーナの気持ちを和らげようとした。
「ありがとう、アルバン、ヴェルゴート……!」
コンスタンツェを抱きしめてお礼を言うニーナに、俺達は笑みを返した。
「お礼はお嬢様が助かってからです。玄関の扉は音が大きい。大奥様にばれないよう、厨房の裏口から出ましょう」
私はそっとニーナの背を押して、裏口へ促した。
外套を羽織ったニーナを馬車に乗せながら、アルバンはニーナに尋ねた。
「それで、医者はヨハネス先生のところでいいんですか?」
「いえ、ヨハネス先生は大奥様側の人だから、きっと診てもらえないわ。だから、隣町のユリウス先生のところへ。ユリウス先生は、どんな事情の人も診てくれる良い先生だと聞くわ」
ユリウス先生には、私の母が流行り病になった時にも世話になったことがあった。
様々な貴族から頼りにされる高名な医師なのに、自宅を改装した診療所で身分を問わずに診察をしてくれる篤実な方と有名だった。
「でも、どうしましょう、隣町まで行ったら、ただ往復するだけでも明日の朝になってしまうわ。朝食の時にはお義母様と顔を合わせないといけないのに、その場に居なければ、お義母様の話を無視して医者に診せにいったことがばれてしまう! そうなったらもう離婚裁判沙汰だわ……!」
絶望に打ちひしがれるニーナに、私はどうしたものかとアルバンと顔を見合わせた。
「では、治療の間、私がお医者様の元に残りましょう。お嬢様を送り届けたら、奥様はアルバンと馬車で屋敷に戻ってください。お嬢様の治療が済んだら、頃合いを見て、私がお嬢様を連れて馬で戻ってきましょう」
閃いて言えば、ニーナも安堵したように顔を上げた。
「往復するだけなら、大奥様と顔を合わせる朝食に間に合います。お嬢様がいなくとも、熱があると知っている大奥様は様子を見に来ないでしょう。侍女には上手く口裏を合わせてもらえばいいかと」
私が説明すれば、ニーナは頷いた。
「わざわざ奥様が行かなくても、俺とヴェルゴートだけで診せに行けばいいんじゃねえか?」
私の説明を聞いて、アルバンはふと思いついたように言う。
「いいえ、私も行かせて。コンスタンツェは今、熱で誰よりも苦しんでいるわ。少しでも母親の私が一緒にいて安心させてたいの。貴方達を信じていないわけではなくて、あくまでも私の個人的な我儘よ。手間をかけさせてしまうのは、本当に申し訳ないけれど」
こんな時でさえ、使用人の私達のことを慮って謝ってくれるニーナに胸を打たれながら、私とアルバンは顔を見合わせた。
「奥様、俺の方こそ、とんだ失礼を申しました。お嬢様も、お母様が一緒の方がきっといいでしょう。一緒に向かいましょう」
アルバンはそう言って、ニーナに微笑みかけた。
「ええ、ありがとう。頼みます」
ニーナの言葉に、私とアルバンは力強く頷いた。
隣町に向かうには、渓谷沿いの山道をしばらく行かねばならない。激しい風雨で視界の悪い中、アルバンは馬車を慎重に走らせた。私達は予定していた時間より幾らか遅れてユリウス先生の元へ到着した。
「うぅむ、どうしたのかね、こんなひどい嵐の晩に」
私が玄関の扉を叩いて声を掛けたので、口ひげを生やして恰幅のいい初老のユリウス先生が、寝間着姿のまま慌てて玄関に出てきた。
寝ぼけ眼にかけた丸眼鏡をずり上げながら言うユリウス先生に、私は頭を下げた。
「この夜分に大変申し訳ございません。フェルゼンシュタイン伯爵家の遣いの者です。お嬢様が酷い熱でして、急ぎお連れしたのです。どうか診察していただけないでしょうか」
私が言えば、ユリウス先生は職業柄か、はっと目が覚めたようだった。
「それは大変だ! すぐに連れてきなさい」
「ありがとうございます!」
玄関近くにかけてあったらしい白衣を羽織って言うユリウス先生に礼を言って、私はアルバンに合図した。
すぐに我々は診察室に通され、ユリウス先生は診察台に寝かせたコンスタンツェをあれこれ調べ始めた。
「ユリウス先生、娘は、大丈夫なのでしょうか」
ニーナが尋ねれば、ユリウス先生は優しく微笑みかけた。
「ええ、早く来ていただいて何よりでした。季節性の流感ですが、この高熱が朝まで続けば後遺症が残るか、悪ければ亡くなっていたかもしれません。しかしもう大丈夫です。この薬を飲ませて一晩も眠れば、すぐによくなるでしょう」
ユリウス先生は穏やかな声で説明した。
「ああ、よかった! 先生、ありがとうございます!」
涙目で礼を言うニーナに、ユリウス先生は微笑んで頷いた。
「ただ、この嵐の中、また馬車で山道を移動するのはご令嬢に負担がかかります。それに渓谷沿いの道はこの大雨で土砂が緩んで危ない。どうぞ今晩は泊っていってください」
親切な申し出に、ニーナは申し訳なさそうに首を振った。
「いえ、実は急なことで、夫が不在なのにもかかわらず、お義母様にも黙って来てしまったので、朝までに私だけでも戻って状況を説明しないといけませんの。そちらのヴェルゴートが付き添いますので、申し訳ございませんが、私と御者は帰らせていただきます」
大奥様が馬車を出すことを禁じたことは伏せて、ニーナは説明した。
「いやしかし、この嵐ですぞ、万が一のことがあったら」
「ご心配ありがとうございます。それでも、無断外泊など離婚裁判沙汰ですもの。娘と離れ離れには、なりたくありませんので」
驚いて言うユリウス先生を遮って、ニーナは苦笑した。
「そうですか……それでは、どうぞ、お気をつけて」
心配そうに言うユリウス先生に目礼し、ニーナは診察台の上のコンスタンツェを抱き上げた。
「ああ、可愛いコンスタンツェ! 苦しんでいるあなたを置いていくことをどうか許してね。よくなって戻って来るのを待っているわ。大好きよ」
そう言って、コンスタンツェの額に一つ口付けると、また診察台にそっと寝かせた。
「先生、どうか娘をよろしくお願いいたします」
「ええ、お任せください」
ニーナはユリウス先生の頼もしい返事に少し安堵した笑みを浮かべて、アルバンと共に馬車へ戻った。
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