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───どうして?
ティアは部屋の壁に背を預けながら茫然としていた。
グレンシスが、絶望した表情を浮かべていることも、好きだと言ってくれたことも、ここにずっといれば良いと言ってくれたことも、全部が理解できなくて。
ティアはグレンシスに恋をしている。
でもそれは自分が勝手に始めた、独りよがりの片思いのはずだった。
そして今日、その恋を終えるべくメゾン・プレザンに戻ることを決めたのだ。
なのに、引き留められてしまった。
自分に向かう彼の気持ちまで知ってしまった。にわかに信じられないけれど。
そんなふうに思うのは、ティアがグレンシスに対して”良い子”でいたことなんてないから。
欲しがられたものを差し出したこともないし、わざと嫌がる事だってしてきた。
特に出会った頃なんて、最悪だった。
グレンシスに向かう気持ちがまだあいまいで、黒歴史と言っても過言ではないくらい可愛げのない態度しかとっていなかった。
なのに、グレンシスは好きだと言ってくれた。
───どうして?ねぇ、どうして?
結局ぐるぐる考えても、ティアは最初の疑問に戻ってしまう。
メゾン・プレザンに居る者……娼婦も使用人たちも、皆、それなりの事情があり、大なり小なり心に傷を抱えている。
そんな中、良い子でいるティアは、皆にとって癒しの存在であった。いや、言葉を選ばずに言うなら、とても都合の良い存在だった。
そして、皆、傷を癒すために、誤魔化すために、生きていくために、ティアに甘えた。甘え続けていた。そして、ティアも必要とされるために、それを甘受していた。
八つ当たりをしても、無理なお願いを言っても、分け隔てなく頷いてくれるティアのことを、メゾン・プレザンに居る者たちは、大切に愛されてきたからそうしてくれるのだと思っていた。
それは、小さな、小さなすれ違い。
悲しいけれどそれ故にティアは、何もしなくても愛されることがある、ということを知らなかった。
「ティア」
頭の中で何度も繰り返す「どうして?」の答えが見つかっていないのに、グレンシスから名を呼ばれティアは身を強張らせた。
震える両手をぎゅっと胸のあたりで組んで、見上げれば、真摯な表情をしたグレンシスと視線が絡み合う。
「俺はお前の事が好きだ」
はっきりと、グレンシスは言った。
いつも通り芯のある声で。
切実な何かを秘めたブルーグレーの瞳をティアから逸らさずに。そして、ティアに問うた。
「お前は、俺の事が好きか?」
なんて飾り気のない、逃げ道を塞ぐストレートな質問なのだろう。
ティアは心の中で舌打ちをする。でも、気付けばこくりと頷いていた。
その瞬間、さっきまでの悲壮な表情が嘘だったかのように、グレンシスは破顔した。
そして、雨上がりの空のような爽やかな笑みを浮かべて口を開く。
朝日を浴びて、グレンシスの深緑の髪が新緑の葉のように輝いている。
「なら、問題ない。お前は、ずっとここに───」
「できません」
グレンシスの言葉を遮って、ティアは激しく首を横に振った。
まるで追い詰められた小動物のように。
路地裏で恐喝された幼い子供のように。
それから、ティアはグレンシスが何か言う前に、慌てたように口を開く。
「私、メゾン・プレザンに戻ります。あそこが私の帰る場所なんです」
「ここが嫌なのか?」
「違います。嫌なんかじゃないです。でも、私はあそこに居たいんです」
「母親と過ごした場所だからということか?」
その問いで、グレンシスがある程度自分の出生を知っていることに気付く。
でも、それだけ。知っていたからと言って、どうしたっていうのだ。
ティアが誰とも恋をしない。結婚もしないと決めた意志は、その程度のことでは曲げれない。
「それもあります。あそこが唯一、お母さんとの思い出がある場所です。……でも、それだけじゃないんです」
ティアはここで、微笑んだ。
聖母のような万人に向ける、優しく慈愛に満ちた笑みを。
グレンシスが自分に気持ちをさらけ出してくれたように、自分もちゃんとこの人に伝えなければならない。
ティアはそう思った。ちゃんとグレンシスに見せようと思った。
自分の心の底にある汚い気持ちまで。
「メゾン・プレザンは、桃源郷のようなところです。美しい庭に、娼婦の姐さまたちの綺麗なドレス。芸術品のような料理に、綺麗な音楽。そんなふわふわする夢のような空間で、ひたすら身体を動かしていれば、何も考えなくて済むんです」
───私、あそこで変わらない毎日を過ごしていきたいんです。
ティアは更に笑みを深くした。
反対に、グレンシスは悲しげな表情を浮かべた。まるで目の前にいる人間が不治の病だと知ったかのように。
それで良い。
もっと言うなら、せっかくの求婚をこんな理由で跳ね除ける自分を軽蔑しても良い。
ティアはそんなふうに思っていた。いっそ、そうあればとすら願っていた。
それくらいティアは、変化を嫌う。いや……現実と向き合うことから逃げているのだ。
自分の抱えているややこしい事情からも。
これから先、一人で生きていくことの不安からも。
別れは心に深い傷を作る。
幼い頃に唯一の肉親と死に別れたティアにとって、それは今でも癒えない傷のまま。
もし次に大きな別れが自分の身に降りかかってしまえば、もう生きていけないことをティアは本能で悟っていた。
だから、誰かと深く関わらないように、感情を極力押さえ込むことにした。
「どうせ」とか「なんか」とかという言葉を使って諦めることを覚えた。
ちまたで良く耳にする言葉がある。何でもかんでも向き合う必要はない、と。
ティアは、それが優しい人が何の責任も持たずに放つ言葉だとちゃんとわかっている。でも、その言葉に縋った。
誤魔化して生きていくことをティアは選んだのだ。
幸せの形は目に見えない。人それぞれだ。
だから、これでティアが幸せだというなら、誰もそれを間違いだという権利はない。誰にも他人の幸せを奪う権利はないのだから。
グレンシスは、ティアの言葉にじっと耳を傾けていた。
彫刻のように綺麗なばかりで、表情は無に近い状態で。
ティアはその姿を見て、やっぱり美しいと思った。
そして、こんな時でもグレンシスに見とれてしまう自分を笑いたくなる。
「グレンさまが好きだと言ってくれて、私、とっても嬉しいです。でも、私はあなたと一緒にはなれません。グレンさま、あなたは騎士です。この国に必要な人間です。私があなたの傍に居れば、必ず障害となります。そんなの私が耐えられません。だから……どうかあなたは、あなたに相応しい人と幸せになってください」
ティアは丁寧に頭を下げた。非の打ち所がない完璧な拒絶の仕草だった。
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