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不機嫌、などという言葉では生温い声と共に、生垣のオウゴンマサキを飛び越えて来たのはユザーナだった。
ちなみに表情も予想通りのもの。
その表情を見て、ティアの身体がびくりと跳ね、グレンシスは死んだ魚の目になった。
「私は道草を許可した覚えはないが。これはどういうことだ?説明しろ」
若い男女のイチャイチャ場面に乱入した罪悪感など皆無で、ユザーナはグレンシスに詰め寄った。
もちろんグレンシスは答えない。
ただ一応の配慮として立ち上がり、ティアと拳2つ分の距離を取る。
でもやっぱり形の良い唇は一文字に結ばれたまま。
たとえこの国で2番目に偉いお方からの問いかけであっても答えることはしないのだ。断じて。
なぜならグレンシスは死にたくないから。
ようやっと大好きな人と未来を歩める権利を得たのだ。絶対に何が何でも死にたくなかった。
ただ、あいにく神様は次の推しイケメンを探すのに忙しいようで、この場の空気はどんどん劣悪なものになっていく。
グレンシスは、これまで生きてきた中で一番の恐怖を感じている。
でも、そんな神に見捨てられ、もはや辞世の句を読むしか選択肢が残されていないグレンシスの元に、救いの手が差し伸べられた。
「その辺にしといてやれ。ユザーナ」
やんちゃな弟を嗜めるような口調と共に登場したのは、バザロフだった。
どうでも良いかもしれないが、生け垣を颯爽と飛び越える姿は、巨大な馬のようなしなやかさだった。
ただグレンシスは、ヒーローのように現れた上官に感謝の念を送る前に、いささか気になることがあった。バザロフの服装がちょっとばかし、おかしかったから。
ついさっき謁見の間にいた時は、バザロフの服装はいつも通りの最高位の騎士服を身に付けていた。
いや、もちろん今もそうなのだが、グレンシスより装飾の多い上着は袖を通さず肩に掛けられたままだし、普段は大人しく腰にぶら下がっているはずの特注の剣を、片手に持っていたりもする。
ユザーナもバザロフほどではないけれど、少々着崩れをしている。普段の宰相らしくない。
また同じく片手には……剣。しかも自前の。
ここで、グレンシスは気付いてしまった。バザロフとユザーナがついさっきまで訓練場で、小競り合いと言う名のケンカをしていたことに。
その理由など、聞かなくてもわかる。
それに聞いたところで、しょーもないことに決まっている。
大の大人が仕事を放り出して何をやっているんだと、苦々しい気持ちになる。自分の事は棚に上げて。
ちなみにそのグレンシスの視線は、ユザーナの方が早く感じ取った。
威厳に関わることを指摘されたらたまったもんではないユザーナは、慌てたように口を開く。
「とにかくグレンシス、お前はこの脳筋男と剣を交えて、根性を鍛え直して来い。そ、それから……テ、ティアは私が送ろう」
上の句は威圧的に、下の句はもじもじとしながら、ユザーナはティアに視線を向けた。
けれどティアは目を丸くしたまま硬直している。突如変わってしまった現状に思考が付いていけないのだ。
そんなティアの代わりに口を開いたのは、バザロフであった。
「はっ。ちょこざいな」
鼻で笑ったバザロフに、ユザーナの眉がピクリと跳ねた。だが、バザロフの口は止まらない。
グレンシスとティアが、いやもうやめてと願っていても。
「新米父親のくせに、儂を差し置いて良くそんなことが言えたものだな。ティアを送る?は?それは儂の役目だ。なにせ儂は、ティアが生まれてきてからずっと父親だったからな。ふっ、今、言わなくても良いかもしれないが、儂はティアにパパと呼ばれたことだってある」
「……なっ」
「ああ、そんなことを言ったら思い出してしまったぞ。よちよち歩きのティアが、儂に手を伸ばして歩いてくる姿を。あれは、たまらんかったなぁ」
「……ちっ」
もうやめて。本当にやめて。
ティアは涙目になって、バザロフに必死に目で訴える。
対してグレンシスはここでなぜかバザロフに向かって『もっとやれ』的なエールを心の中で必死に送る。
補足だが騎士団のメンツ云々でそんなふうにしているわけではない。ここで活路を見いだしたのだ。
そして相反する二人の心境に気付いていないバザロフは、とうとうユザーナに向かって、最終兵器とも呼べる爆弾を投下した。
「ま、やはり長年、ティアの成長を見守ってきた儂こそが、バージンロードのエスコートをするにふさわしいな。はっはっはっ」
勝ち誇ったオーラを惜しみなく出し、豪快に笑い声を上げるバザロフを見て、ユザーナの表情が消えーーここいら一帯だけが、ひと足早く冬の季節を迎えてしまった。
「バザロフ。貴様、どうやら死に急ぎたいようだな。よかろう。そのケンカ、買ってやる。剣を抜け」
「ああ、望むところだ」
バザロフは肩に羽織っていただけの上着を脱ぎ捨てると、肩をぐるぐると回す。
それを見たユザーナも、上着を脱ぎ捨て、その場で軽く跳ねる。
どちらも壮年と呼ばれる年齢なのに、その眼光は衰えを感じさせないほど、鋭く生き生きとしている。もちろん、その動きも同じく。
ただウィリスタリア国の両翼の権威は、どこにもない。
それを見たティアは、状況を忘れてこう思った。
バザロフの古傷は、移し身の術なんかじゃなく、こっちのほうが効果があるかもしれないと。
「───ティア……絶対に口を開くなよ」
複雑な心境になっているティアに、頭上からそんな言葉も降ってくる。
すぐさま、多量のはてなマークを頭に浮かばせるけど、利口にも小さく頷くだけにする。
それからティアの顎の位置が戻った瞬間、バザロフとユザーナは同時に鞘から剣を抜く。次いで地を蹴る振動が伝わったと同時に、ギンッという剣独特のぶつかり合う音が響いた。
「ぎゃ……う……───」
ティアは両手を口に当てて、悲鳴を慌てて飲み込んだ。
と、同時にお腹に力強い衝撃を覚え、身体がふわりと浮く。
ティアが混乱したのは一瞬のこと。すぐに状況も理解できた。グレンシスが喋るなと言った理由も。
まぁつまり、グレンシスは上官同士のケンカに乗っかって、ティアを小脇に抱え、その場からすたこらさっさと逃げ出したのだ。
グレンシスの名誉の為に付け加えるが、これは敵前逃亡ではない。
【三十六計逃げるに如かず】という東洋の兵法に基づいたまで。多分、おそらく。
そんなこんなで、グレンシスはティアを小脇に抱えたまま、とにかく安全な場所へと足を急がせる。
走って走って、城外へと続く渡り廊下まで来ると、ここでやっとティアを降ろした。
「あの……止めなくて良かったのでしょうか?」
地に足を付けたことでやっと落ち着きを取り戻したティアは、おずおずとグレンシスに問いかける。
「良いか悪いかは置いといて……。すまないティア。俺ではあの二人を止めるのは到底無理だ」
真顔でそんなことを言うグレンシスに、ティアは絶望の表情を浮かべる。
そんな青ざめるティアに、グレンシスは少し取ってつけたような笑みを浮かべた。
「安心しろ。あの二人の小競り合いは今に始まったことじゃない。だが、二人とも互いの力量はわかっている。怪我をするような無茶まではしないだろう。まぁそれに、何かあっても……お前がいれば大丈夫だ」
暗に死ななければ、移し身の術でなんとかなる。と、グレンシスは言いたいのだろう。
上官に向けての言葉ならいかがと思うが、ティアにとってはとても安心できるものだった。
「そうですね」
呟いたティアの表情は憂えたものから、穏やかなものに変わる。
それをちゃんと確認したグレンシスは、ほっと肩の力を抜く。次いでに少し乱れた騎士服も整える。
次いで、雑にズボンのポケットにねじ込んでいたままの手袋をはめ直すと、おもむろにティアに手を差し伸べた。
「さて、帰るか」
もうどこにと聞かなくて良いティアは、グレンシスの言葉にこくりと頷き手袋に包まれた大きな手に自分の手を乗せて、二人はどちらともなく歩き出した。
今は、秋。実りの季節。
これから向かうのは、寒く凍える冬の季節。でも、雪が解ければ花は咲く。春になる。
時折、顔を見合わせ微笑み合いながら歩き続けるティアとグレンシスは、季節がめぐることを知っている。
そしてこれから何度同じ季節を迎えても、これまでとは違う彩りを見せることも知っていた。
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