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グレンシスは、好きなだけティアに胸を貸していた。
小さな拳でぽかぽかと自分を殴るティアは、まるで猫がじゃれているようで、とても可愛らしい。
ただ少しだけ、ほんの少しだけワガママを言うなら、子猫のようにすり寄ってくれた方が嬉しかった。
……などと思ってみたけれど、そうなると話の途中で理性のタガが外れてしまいそうなので、やっぱり今はこれで良い。良いはず。良いことにしよう。と、自分に言い聞かす。
そしてティアに伝えたい言葉の続きを語り出す。
「これから先、お前がそのことで不安を覚えるなら、俺は何百回でも、何千回でも口に出して言ってやる。ああ、言っておくが、子供がどうのという理由では俺からの求婚を断わることはできないぞ」
グレンシスの言葉が雲間から陽が射すように、少しずつティアの頭に入ってくる。
随分と上から目線で、高慢ちきな発言だ。
でも、グレンシスらしいと言えば、グレンシスらしい。そしてティアは、そんな彼が大好きなのだ。
ティアの真っ赤になった頬が、淡い色に変わる。それと同時に翡翠色の瞳が濡れたように輝き始める。
続きの言葉を聞くことに、ティアはもう怯えることはない。
そして二人はもう、これがグレンシスの一方的な独り言という設定を忘れている。
「最後にティア、俺がお前に結婚を申し込んだのは、権利が欲しかったからだ」
「……権利ですか?」
どんな?
そんな意味も含めてティアが問うた瞬間、グレンシスは自分の迷いや葛藤を振り払おうとでもするように荒々しく立ち上がった。
そして、手袋を外すとそれをぞんざいにズボンのポケットにしまい込む。次いで騎士らしく洗練された所作で片膝を付いた。
その行動に何の意味があるのかわからないティアは、ただただ目をぱちくりさせている。
グレンシスは、そんなティアの疑問に答えることはしない。
でもその代わりに、ティアの小さな手を取り、エスコートをするように反対の手のひらに乗せた。
それからやっと、グレンシスはティアの問いに答えることにする。
「愛する人を最初に守れる権利だ。それを有するのは、親でも兄弟でもない。夫なんだ」
「……」
「だから俺は、その権利が欲しい。……どうしても」
過去、これだけ強く自分を求められたことがあっただろうか。
ティアは力強いグレンシスの眼差しを受けながら、ふとそんなことを考える。少し記憶を探っても、ない。
ここで宝石のようにグレンシスの手のひらに乗せられていた自分の手が、不意に暖かいものに包まれた。
グレンシスが反対の手も重ねたのだ。まるでティアに答えを急いているかのように。
───相も変わらず、せっかちな騎士様だ。
ティアは心の中で苦笑を浮かべる。そして、こんな悪態を吐いてみる。
もう、わかっているくせに、わざわざ聞いてくるなんて意地が悪い、とも。でも言葉にして欲しいグレンシスの気持ちは、痛い程わかる。
言葉にしないといけない時だってあることも、ティアは知っている。
なにより、もう母親と同じ生き方は、どうあってもできないこともわかっている。
そう。ティアは全部わかっている。どうしたいのかも、何を選びたいのかも。
べきという言葉では、もう自分の心の動きを止めることはできないことも。
けれど、ティアはなぜかここで素直になれなかった。
「仕方がないですね。そんなに欲しいなら……あげますよ。グレンさま」
どうしたお前?と聞きたくなるくらい、ティアは不遜な言葉を吐いた。
でも、すぐにグレンシスに向かって開いている方の手を付き出した。
「あげる代わりに、私にも同じものをください」
ティアはそう口にした途端、魔法にかかったみたいに素敵な気持ちになった。
やられたと言いたげなグレンシスの悔しそうな表情がたまらなく楽しい。
いつも負かされていたから、ちょっとだけ意趣返しができた。
そんな気持ちからグレンシスの瞳に映る自分がドヤ顔を決めているのも、また楽しい。
そして、自分の瞳にはきっとグレンシスが映っているのだろう。悔しさと喜びをごちゃ混ぜにした特別な笑みを浮かべた彼が。
世界は自分が思っている以上に、素晴らしいものだったんだ。
気付けずにいた。母親が死んでから、ずっと自分の世界は闇に覆われて暗く寂しかったことに。
でも今、自分の目に映る世界がぐんと広がって、その果てしない明るさと眩しさに触れることができたのだ。この手で、この目で。
今まで、こんな喜びがあることを知らなかったのは、手で片目を覆って生きてきたからなのだと、ティアは思う。
そしてそれはグレンシスも同じだったのかもしれない。いや、間違いなく同じだった。
だからグレンシスは、これ以上言葉を重ねるよりは、行動で示した。
容赦なくティアの腕を掴み、自分の胸の中に抱え入れる。
「くそっ……みっともないくらい、嬉しい気持ちだ」
「私もです」
ティアはグレンシスの上着をぎゅっと握ってそう言った。
それ以上、言葉が見つからなかった。
「なぁ、ティア。俺たちは、きっとこれからもこうやって、色んな事を知っていくんだろうな。それを繰り返して歳をとっていくなんて、最高だと思わないか?」
確かに、最高だ。
今がこんなに幸せなのに、それがずっと続くなんて、もう最高々だ。そんな言葉はないけれど。代わりの言葉も見つからないけれど。
伝える言葉が見つからないティアは、グレンシスの胸にぐりぐりと額を押し当てる。グレンシスは可笑しそうに軽い笑い声をたてる。
そしてひとしきり笑った後、細く長く息を吐く。
「……不思議なものだな。お前は一人しかいないのに、俺はお前に何度も恋をしているような気持ちになる」
これもまた同じ。
でもティアは頷かなかった。正確に言うと、頷けなかった。
なぜならグレンシスが腕を緩め、ティアの顎を捉えてしまっていたから。
そして改めて、こんなことを聞いてきた。
「ティア、俺と結婚してくれるか?」
「……はい。喜んで」
少しの間だけティアは、はにかんで。
でもグレンシスに求められるがまま、乞われるがまま、サクランボのような唇を差し出した。
そして、二人の唇が重なろうとしたその瞬間───
「グレン、私はティアを送れと頼んだはずだが、なぜここに居る?」
とてもとても残念だけれど、二人だけの甘い空間にお邪魔虫が登場してしまったのだった。
ティアとグレンシスは地獄の底から漏れるような呻き声に、緊張が走る。表情も打って変わって青ざめる。
どうやら神様は、人のものになったイケメンに興味を失ってしまったようだった。
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