epilogue 始まりの季節を迎えて

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 ……というお花とバケツのことは置いておいて、グレンシスはマダムローズの問いに答えることにする。  胡散臭いと思われるほど紳士的な笑みを浮かべて。 「はい。宰相殿は、仕事が終わらないそうなので置いて来ました」 「……置いてきたって……お前さん、あの人の護衛騎士になったんだろう?」 「はい。ですが、就業時間後まで付き合うわけにはいきませんから」  いつもより爽やかな口調を心掛けてきっぱりと言い切ったグレンシスに、マダムローズはあんぐりと口を開けた。  実はグレンシスは、2ヶ月前から宰相であるユザーナの護衛騎士になっている。  元々グレンシスは王女の伝令役という名の護衛騎士であった。けれど、王女が嫁いだことで、年が明け少ししてから人事異動があったのだ。  王女の護衛から宰相への護衛にと。───まぁまぁ悪くない。いや、なかなかの出世だ。  ただ宰相はティアの父親でもある。  何かしらの要因が働いたことは否めない。そして日中、チクリチクリと仕事とは関係ない嫌味を飛ばす宰相を見て、まごうことなき、個人的な感情が働いた人事異動だったと痛感せざるを得ない。  だが、グレンシスはそこそこ要領よく、日々を過ごしている。例えばこんなふうに。 「ああ、そうそう。マダムローズ、実はロシャーニ産の稀少ワイン、1箱とある筋から入手しました。ずっと探し求めていたそうですね。もうすでに厨房に納めてありますので、どうぞ後ほどご確認ください」  先手必勝とばかりにマダムローズの喉元をくすぐるような言葉を吐いた。  真面目で堅物であったグレンシスだけれども、宰相と過ごすうちにほんの少しばかし、要領が良くなったのだ。  そしてなかなかの札を出され、ぐぬぬっと呻いたマダムローズだけれど、次の瞬間、ぷっと吹き出した。  どうやら、今日のグレンシスの発言は聞き流すことにしたのだろう。にやりと口の端を持ち上げ、顎でとある場所を指し示す。 「ティアは地下の衣裳部屋にいるよ。手伝っておやり」 「ありがとうございます」  グレンシスは慇懃に礼を取り、まるで待てを解かれた犬のように、一目散に地下の衣裳部屋へと駆け出して行った。  一方その頃、ティアは地下の衣装部屋でえっちらおっちら娼婦たちのドレスや小物類を必死に片付けていた。  本当の父親が誰だか判明した今、ティアは貴族令嬢の仲間入りをして、娼館の娘でいる必要はなくなったのに。  それでもティアは、メゾン・プレザンで相変わらず下働きのようなことをしている。......とりあえず、秋までは。  ティアとグレンシスは、今年の秋に挙式をとり行う予定だ。  プロポーズをしたのは、昨年の秋。そして今は春。つまり夏を跨いで、やっとこさ挙式となる。  幼少の頃に婚約を決められた貴族を除いては、こんなに長く婚約期間があるのはかなり珍しいこと。  なのだが、実父と義父との間にある問題ーーバージンロードをエスコートするのが決まっていないせいで二人は先延ばしにすることを選んだ。  正直いって、ティアはどちらでも構わない。なんなら、二人共にお願いしたいのが本音。  ただ、パパロフとユザーナは、声を揃えてこう言った。『誰がコイツと並んで歩くかっ』と。  だから挙式は秋になった。  そんなわけでティアとグレンシスは、二人の父親にこうお願いした。『どうか秋までに、決めてください。ただし、無傷で』と。  現在、バザロフとユザーナは暇さえあれば、エスコート権をめぐり、さまざまなジャンルで争っている。  ......という、これまでの経緯をつらつらと思い出しながらでも、ティアの手は止まらない。  ドレスを一着一着丁寧に作り付けのクローゼットにしまい込み、天井まである収納棚にはしごを使って、小物や靴を元の位置に戻す。  そしてすべての備品を片付け終えれば待っていたかのように、楽団の曲目がオーバーチュアから迎賓曲へと変わった。  娼館も、開館前とは違う忙しなさを感じて、ティアは少しだけ口元に弧を描く。  なんだかんだいっても、メゾン・プレザンで働くことが好きな自分に気づいて。  けれどこれまでのように、マイペースでここで一休みするわけにはいかない。  ティアはすぐ軽く伸びをして、梯子から降りようとした。……が、その瞬間、ガチャリと扉が開いた。ティアの翡翠色の瞳が輝きを増す。 「ティア、帰るぞ」  深紅のマントを羽織ったイケメン騎士は、ティアに向け柔らかい笑みを浮かべてそう言った。  ───そう。今、ティアが生活しているのは、メゾン・プレザンではなくグレンシスの元。ロハン邸。  昨年の秋、ティアはグレンシスからの求婚を受け入れた。それからずっと、ティアが帰る家はロハン邸となっている。  もちろん、なし崩し的な感じでそうなったわけではない。  グレンシスはきちんと許可を取った。ティアの実父にも、義父にも、母親代理にも。  まぁ、マダムローズとバザロフはもともとティアに対して放任主義のところがあったので。だから、どうぞお好きに。と、あっさり許可が出た。   ただご多分に漏れず、ユザーナは未婚の女性が異性の屋敷に云々かんぬんと、難色を示した。いや、はっきりいって大反対をした。  もちろんこれは想定の範囲内。  だからグレンシスは、既にロハン邸にティアの部屋があること。身の回り品が用意されていること。過去何度もロハン邸で過ごしていることを礼儀正しく説明した。  最後の腰痛持ちの使用人マーサは、ティアの専属の患者であることも付け加えて。  移し身の術に並々ならぬ想いを抱えているユザーナにとったら『こいつマジこすい』と思いつつも......結局は許可を下した。  そんなこんなで、グレンシスは夜勤や遠征がない限り、こうしてメゾン・プレザンに足を向けている。ティアのお迎えのために。  だからティアは迎賓曲が聞こえると、いつ衣装部屋の扉が開くのかソワソワと楽しみになっていたりもする。 「どうだ、片付けは終わったか?まだなら、俺も手伝うぞ」 「いいえ、今終わったところです」 「お、おい待てっ。危ないだろ」  これまで通りの習慣で、梯子の一番上から飛び降りようとしたティアを、グレンシスは慌てて止めてはしごの下まで移動する。  次いで、両手を伸ばしてティアの脇に手を入れた。次いでティアをそっと床に下ろした。 「あのぉ......グレンシスさま、あまり甘やかさないでください」  騎士服のまま膝をついて、自分のスカートの皺を手のひらで撫でるように落とすグレンシスに、ティアは苦笑混じりにそう言った。  日々を重ねるごとにグレンシスの行動は、落ち着くどころか甘やかし度が増していく。  気持ちは嬉しいし、ありがたいし、くすぐったい。でも、限度が見えないティアはそろそろ一抹の不安すら覚えているのも本音だったりする。   しかしグレンシスは、頷くどころか、信じられないものを見る目付きになった。 「馬鹿を言うな。俺はこれでも十分我慢しているんだ」 「......」  ティアは返す言葉が見つけられなかった。  そんな唖然としたままのティアの手を引き、グレンシスは衣装部屋の戸締まりをして部屋を出る。そしてそのまま並んで裏口へと向かう。 「ティア、お疲れ。また明日な。騎士さま、今日はご教授ありがとうございました。またご指導お願いします」 「はい。ロムさん、お疲れさまでした」 「ああ。頑張りたまえ」 「はいっ。では、どうぞお気を付けて」  裏口の扉を開けて、ティアを見送るロムの表情は、親しみはあるけれど、恋慕の情はもうなかった。  寄り添う二人の後ろ姿を見て、ロムが何を考えているかは......内緒である。  ***    ティアを乗せた馬車が静かに止まった。ロハン邸に到着したのだ。  風見鶏が春の夜風に吹かれて、カラカラと回る中、御者が恭しく扉を開ける。  と同時に、馬を使用人に託したグレンシスが、馬車を降りようとするティアをそっと支える。そしてそのまま二人は、屋敷の玄関へと向かう。 「おかえりなさいませ。旦那様、ティアお嬢様」  グレンシスの手で玄関の扉を開けると同時に、使用人たちの暖かい声に出迎えられ、ティアはこくりと唾を呑む。  なにせこの屋敷の使用人一同は、ご主人様と同じくティアを甘やかしたくて仕方がない人たちばかりだから。 「さ、お食事を用意しております」 「いえ、それよりも香りの良いお茶をお持ちしましょう」 「いえいえ、お疲れでしょう。先にお湯を用意しましょうか」 「それよりもまずは、お着換えですね」  さぁさぁと満面の笑みで迫られ、ティアはじりっと後退した。  しかしここで、庭師の制止をふりきった番犬であるシノノメが、早く入れと鼻先を使って、ティアを膝をぐりぐりと押す。ついでにぴすぴすと甘える声までだされたら、もう観念するしかない。  ティアは押される形で、やっとこさロハン邸に足を踏み入れた。 「ただ今戻りました」  一歩玄関ホールに足を踏み入れたティアは、ペコリと頭を下げる。 「おかえり、ティア」   玄関ホールに足を踏み入れるまで、毎度毎度同じことを繰り返すティアにグレンシスはあきれることもしなければ、急かすこともしない。  ティアの『ただいま』に、グレンシスはいつも必ず『おかえり』と返してくれる。逆の時もまたしかり。  ちなみに毎度毎度このやり取りのあと、ちょっぴりモジモジするティアとグレンシスを使用人たいちは辛抱強く見守っている。もちろん生温い視線と笑みで。  一方、主がいないしんとしたロハン邸のティアの部屋では、パチパチと薪がはぜる音が響いている。  ミィナがティアの到着時間に合わせて暖炉に火をくべていたからだ。  既にルームランプにも明かりが灯されていて、部屋はくつろげる明るさになっている。  ベッドの上にいる大小の熊の縫いぐるみは、ティアの到着を待ちわびて若干ソワソワしていて、窓側におかれているマホガニー調のチェストの上にある、桃の形をした宝石箱は揺れる暖炉の火に反射して、てらりと光っている。  ───カチャリ。  扉が開く音と共に、ぽてぽてとした足音とカツカツと規則正しい足音が重なる。  それから数歩、歩いたあと、2人は急に足を止めた。  暖炉の火で伸ばされた2人の影がゆらゆらと揺れながら重なる。しんとした部屋に互いの吐息と薪のはぜる音が混ざり合う。  いつの間にか、もう屋敷の主は、縫いぐるみが居てもお構い無しに、部屋の主に触れるようになっていた。  ───それから2年の月日を迎える頃、ティアは母となった。  おしまい
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