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酒の肴は知らぬ花
一美が入社してもうじき二ヶ月が経とうとしていた初夏の夜、彼女を含めた六人の新人スタッフをもてなす歓迎会という名目の、ほぼ全スタッフ総勢三十八名による飲み会が開催された。
この時の事はほとんどうろ覚えだが、特に一美との関係性に変化があった記憶もないので、たまには全部忘れて羽を伸ばそうと思っていた自分がいる。
しかしこの歓迎会では、壱谷千智だった俺には知る由もない展開が巻き起こり、まるで先が読めずに頭を悩ませるのだった。
「おぅ、お疲れ二色。早く隣に座れよ!」
「お疲れ様です矢野さん。もう出来上がってるみたいですね」
「あん?
まだお前と飲み比べしてないのに、出来上がってるわけないだろ、あぁん?」
閉店時間までの勤務を終え、会場である広めの居酒屋に到着した俺は、早速真っ赤な顔をした先輩準社員に呼び止められる。
ジョッキを片手に盛り上がっている矢野さんは、後に社員となって大杉店を引っ張っていく事になる熱血漢だ。
「あれぇ? そういや壱谷はまだ来てないのか?」
「あー、あいつはなんか準備があるらしくて、後から合流するそうです」
壱谷千智の肉体は、アルコールの分解酵素をあまり所持していない。とどのつまり酒に強くないので、確か今頃はコンビニに寄り、ウコン系のサプリやエナジードリンクを腹の中に詰め込んでるはず。
しかし対照的に、錬次が酒に呑まれている姿は一度も目にした事がなく、この体になってからは本当に酔いにくくなった。
そうこうしている間に千智も合流し、少し後方の大きな座卓を囲む隙間に割り込んだ。
千智と同じテーブルの反対側には一美も座っている。
「これでみんな揃ったかな。
飲み物も行き渡ったところで、改めていくからね」
遅番メンバーの注文が届いたタイミングで、新井店長が立ち上がりみんなの注目を集める。
「今日は眠くなる話はなし。
みんなのおかげで売上は好調だし、ホントにありがとね。
そして………新人さん、いらっしゃ〜い!」
『いらっしゃ〜い‼︎』
なぜこの乾杯の音頭で意気投合できるのか分からんが、とりあえず腹が減っていた俺はビールジョッキを半分空にした後、大皿にあった唐揚げを口に頬張った。
「二色ぃ、お前にはすぐ抜かされそうだよなぁ。
お前みたいに仕事出来る後輩は怖いな!」
そう言いながら絡んでくる矢野さんは、白い歯を見せてニヤニヤしている。
元々兄貴分な気質の上、年齢も三つしか変わらないから、これでもなんだかんだ接し易い人だと思う。
「そんな事ないですよ。
矢野さんの教え方が上手いから、俺も千智も急成長できたんですから」
「まぁなー! 一二コンビは将来有望の出世株だし、大切に育てるさぁ!」
一二コンビとは壱谷と二色をまとめた呼び方だ。
気が付いたら大杉店の中ではこの呼び名が定着していたが、発生源は恐らくこの人か松本さん辺りだと予想している。
多少腹が膨れ出し、矢野さんの絡みも鬱陶しく思い始めた頃、視線を移したその先で松本さんと目が合った。
彼女はすごく変な顔で俺を睨み付けると、ハンドジェスチャーでこちらに来いとアピールする。
「どうしたんですか?」
「まぁいいから座りたまえよ」
さっきの変顔とは裏腹に、いつになく真剣な声色の松本さんを見て、俺は促されるまま隣に座った。
だが直後、ガバッとのし掛かられるように肩を組まれ、耳元に小さめの声で囁かれる。
「どうしたはあんただよねぇ。
いいのかい? あれ。
三隅さんって結構壱谷くんのこと気に入ってると思うよ」
松本さんが指差す先には酔いで今にも眠りそうな千智と、他のスタッフと話しながらも、優しい眼差しで千智を見つめる一美の姿があった。
普段活発な一美があんな表情をするのは、付き合い始めた後にしか記憶が無い。
しかもその視線は過去の俺に向けられていて、まるで第三者の視点で自分の幸せを覗き込んでいるような、不思議な気持ちになっていた。
「えぇ、ちょっと、なに笑ってんの?
ここ笑うところじゃないってぇの!」
自分でも気が付かなかったが、どうやら俺の口元はほころんでいたらしい。
これが俺の本当の心なのかもしれないな。
「いいんですよ松本さん。
なんて言うか、今は一美に幸せになってもらいたいんです」
「おま、はぁ⁉︎ 呼び捨てって、はぁ?
本当にあんたらどういう関係?
……妹か⁉︎ 生き別れの妹なのかぁ⁉︎」
取り乱している松本さんをよそに、俺は一美達の様子を黙って見守っていた。
しかし正面に座る新人さんの言葉に、激しく動揺する。
「松本さんと二色さんって、すごく仲良いですよね。
実は付き合ってたりとか……?」
『ねぇよ!』
おっとり系の雰囲気で爆弾を落としてきたこの子は、一美と同時期に入ったアルバイトの岸田さん。
年齢は一美のひとつ上だが、二人とも親しげに話せる間柄だ。
そして岸田さんの疑念を全力で否定した俺は、不覚にも松本さんとハモってしまった。
「そ、そうなんですね。
じゃあやっぱり二色さんは、一美ちゃんのことが好きなんですか?」
その質問には即答することが出来ない。
隣からの張り付くような視線はズキズキ刺さるが、ここで俺としての気持ちを告白すれば、経験した残酷な未来を繰り返してしまう気がしたからだ。
応援してくれている松本さんには悪いが、今の俺は錬次としての回答をするしかない。
「気にしてないと言えば嘘になるけど、それは友達としての感情だよ。
今は好きな人とかいないかな」
「本当ですか?
二色さんって中性的で綺麗な顔をしてるし、性格もしっかりした大人って感じでモテそうなのに……」
見た目に関しては同意するが、性格はまぁ……、精神年齢アラサーだからそう見えるのかな。
松本さんは呆れた表情で俺を見ていたが、お手洗いに行くと言って隣の席からすぐに立ち去った。
すると今度は正面からの眼差しが、えらく眩しくなってることに気が付く。
「ほら、俺もまだ二十二だし、結婚焦ってるわけでもないから、今は仕事を優先したいなぁ……みたいな?」
なにモテないOLみたいなことを言ってるんだこのアラサー男は。
「うちもお仕事中の二色さんすごくかっこいいと思いますが、普段はどんな感じなのかな? って気になったりしますよ」
うん? なんで岸田さんにそこまで気に入られてるんだろう。
彼女は一美に比べると人見知りで、こんな風に話せるようになったのはここ最近なんだけど、イケメンは大した事してなくてもやっぱ女の子の気を惹くのか?
「普段ねぇ……。
アニメとか映画観たり、本読んで過ごしたりが多いかな。
割とオタクっぽいと思う」
「インドア派なんですね。
うちも映画とか好きでよく観るんですが、今は八月に始まるアニメ映画の予告編観てワクワクしてるんです!」
たしかこの年の八月って言ったら、あの有名監督の作品が……
「もしかしてあれ? 主人公とヒロインの体が入れ替わって、君は誰? ってなるやつ」
「それですー!
ちょうど夏休み中だし、誰かと行きたいなぁとは思ってるんですが、うちの周りに趣味が合う人が少なくて……」
上映まで二ヶ月以上先だし、俺にとっては過去に観てる映画だと思うと、なんだか色んな意味で気が緩む。
「……俺で良ければ一緒に行こうか?」
たぶんちゃんとした笑顔は作れていなかったと思う。けれど岸田さんは本当に嬉しそうにしていて、俺も悪い気はしなかった。
だってこれは浮気でもなんでもない。
過去の錬次の恋愛事情は聞いた事なかったけど、またあの未来に繋げるくらいなら、他の恋愛を考えるのもありだと思う。
そうやって俺は自分自身の気持ちに言い訳を作り、他人事みたいに誤魔化すのだった。
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