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さらば最愛の妻と俺の体
「さっきのお店、雰囲気も良かったし料理も美味しかったね。
記念日に相応しい素敵な思い出になったよ」
俺と妻が入籍してちょうど一年。
今日は俺達にとって初めての結婚記念日だったので、少し奮発して評判の良いレストランでのディナーを堪能した。
グルメサイトでも評価の高い人気店なので、一ヶ月以上前に予約を取り、妻と二人でこの日を楽しみにしていた……はずだった。
しかし俺はさっき飲んだワインの香りでさえ、まるで記憶に残せてはいない。
「ねぇ千智くん、今日はどうしたの?
なんかずっと静かだし、時々顔が引きつってるよ? 職場でなんかあった?」
心配そうに俺の顔を覗き込む妻の表情は、とても嘘や演技には見えない。
いや、俺がそう思い込もうとしているだけなのだろうか。
春はまだ遠く、突き刺さるように冷え切った夜風が、緊張で強張る身体に追い討ちをかけてくる。
「なんでもない……と言えば嘘になるな。
一美、俺に隠し事してるんじゃないか?」
震えるほどの冷気に強引に背中を押され、ようやく胸に刺さる鋭い棘の端の部分だけが出てきた。
これがここ三日間の俺の思考をずっと支配していて、仕事はおろか日常生活の全てが上の空になっている。
「隠し事? なんだろう。
昨日の妊婦健診でも、まだ赤ちゃんの性別は分からなかったよー………とか?」
そうか、もう三ヶ月になるがまだ判別出来なかったか。
だけど俺が聞いているのはそういう話じゃなくてだな。
そもそも健診の結果は隠し事でもなんでもないだろ。
「う・そ! 本当はね、男の子っぽいねって言われたよ!」
なんでそんなに無邪気な笑顔で、いつもみたいにイタズラまで仕掛けてくるんだ?
やっぱりあの日見た光景は何かの間違いだったのか?
だけど過去に目撃してた知人も、一美達の雰囲気が友達って感じじゃなかったって証言したし、さすがに手を繋いで歩いていたら疑いどころか有罪だろ。
「三日前なにしてた?
俺はその日会議の後、あの店の付近を車で通ったんだけど」
妻は一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情になり、全く動揺する素振りも見せずに話し出した。
「そっか、見られちゃってたんだね……。
今日言うべきか悩んだんだけど、いつまでも隠せる事でもないもんね。
実はさ……」
なんだこれ?
結婚一周年で子どももできてる妻が、今まさに浮気を告白しようとしているのに、
なんでこんなにも冷静で穏やかなんだ?
そんな違和感と緊張で潰されそうになっているその時、鼓膜に打ち付ける轟音と共に左側のガードレールが破壊され、妻の声を瞬く間にかき消していった。
「……っ! 危ない‼︎」
俺は咄嗟に妻を建物の間に突き飛ばすように飛んだ。
車道からは暴走する乗用車が歩道に乗り上げ、そのまま俺に向かって突っ込んでくる。
脇腹と後頭部に物凄い衝撃が走り、撥ねられた勢いでビルの壁に叩き付けられた俺は、
音が消え、視界が狭まっていく過程を感じていた。
そのまま遠退いていく意識の中、最後の視野で捉えた妻の顔は、溢れんばかりの涙でぐしゃぐしゃになり、必死で俺の名前を呼んでいるようだった。
「……ぶじか、……ひとみ……………」
…………………………………………
「いてててて……。なんだこれ?
なんで段ボール箱?」
ついさっきまで大通りの歩道を妻と並んで歩いていて、
俺は確か………そう、突っ込んできた車に撥ねられ気を失ってたはずだ。
というかあれだけの衝撃で俺は死ななかったのか?
混乱していて目の前の状況を上手く認識出来ていなかったが、俺は見覚えのある空間でパッキンの雪崩に巻き込まれていた。
「おーい大丈夫かぁ?
はりきって積み上げ過ぎたかー?」
顔の周りにのしかかるダンボールの向こうから、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
その声の主は身動き取れずにいる俺の上から、ひとつずつ箱を退けていく。
しかしそこでせっせと動く人物を見て、俺は自分の目を疑った。
「松本さん……?
なんでここに?」
「なんでって、仕事以外あんのかぃ。
それよりあんたさぁ、若くて元気があるのは良いけど、
華奢なんだから無理しちゃダメさー」
華奢?
俺は割と体格いい方だけど……と自分の腕を見ると、どう見ても俺の腕ではない。
細くて色白だが、多少筋肉もあるかなぁくらいのこの腕は、腕相撲でほぼ負け無しの俺のものとはまるで違う。
そしてその下の床の色から周辺までを確認し、俺は現在地をようやく特定した。
「なんで大杉店のバックルームに居るんだろう……」
「いやだからさぁ、あんたも仕事しに来てるんだろってーの。
大丈夫かー? 頭でも打ったかぁ? 二色くーん?」
理解が追い付かずフリーズしてた俺だが、目の次に今度は耳を疑う。
今松本さんが声掛けてるのって、本当に俺だよな?
しかしずっと残る体の違和感。
場所の違和感。
時間軸の違和感。
松本さんって、俺より前に異動してたよな?
例え信じ難い状況だとしても、とりあえず全ての違和感という違和感を拭い去りたい俺は、苦肉の策を行使する。
「すみません、腹痛が酷いんでトイレ行ってきます!」
「あいよー。
だがオープン前でも慣れるために、ちゃんと十番って隠語使ってくれぃ」
間違いない。ここはバックルーム以外も完全に大杉店だ。
三年勤めてた場所だしトイレまでのルートも覚えているが、それにしてもこの空気感は………
「うぉ、どしたの二色ちゃん、そんなに慌てて」
売り場に抜けようとして鉢合わせた体格の良いこの男性は、最後に会った時よりもずいぶんと若く見える。
ただこの人がなんでまた大杉店なんかにいるのか……。
「新井さんこそここでなにを……?」
「ん、売り場チェックしてたよ。新商品入れたとこまだ過少感あるからさ、在庫あるか見に来たの。
あとボクのことは新井『店長』ね、二色ちゃん」
それを言うなら俺のことも『壱谷ちゃん』だったはずなんだが、なんで二色になってるんだよ。
しかも新井さんがここで店長だったのは少なくとも四年前までで………
考えていたら寒気がしてきたし、まだ違和感の段階で確信が持てなかった俺は、新井さんに軽く会釈をして先を急いだ。
トイレに行くには売り場を抜ける必要があるが、
なるべく他のスタッフと顔を合わせたくないので、俯きながら出来るだけ足速に移動していた。
しかし何者かに肩をポンと叩かれ、仕方なく足を止めておそるおそる振り返る。
「どこ行くんだよ錬次。
探してたパッキン見付かったのか?」
俺は驚愕のあまり泡を吹いてその場に倒れた。
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