憧れ

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 やけに綺麗な顔の男だと思った。白檀の香りを漂わせて、妙に煽情的で。異性を引き付ける色気があるのか、常に綺麗な女が傍にいた。そんな見た目とは裏腹に喧嘩は滅法強く、他校の札付きの不良に何十人と囲まれても一人でのしてしまうほどだった。そのギャップに女子は色めきだって騒いでいた。  当然私とは何の接点も無く、廊下ですれ違うことがごくたまにある程度で、今後関わることもないのだろうと思っていた。  それは、本当に偶然だった。放課後の誰もいない廊下を一人歩いて、教室に忘れたプリントを取りに戻った時の事だった。外はもう暗くなりかけていて、辺りは静寂に包まれていた。 「……っあ……」  教室の扉を開けようとした時に、中から女の声がした。何やら苦しそうな声を押し殺しているようで、私は本能的に、扉を開けてはいけないと思った。同時に、その場へ硬直した。静寂の中、耳を澄ますと衣服の擦れる音と、机の軋む音に紛れ、二人の荒い息遣いが聞こえた。  ―――誰かが教室でセックスをしている。  教室の扉に備え付けられた窓から中の様子を伺うと、窓際の一番後ろの机に女が押し倒されており、その上から男が覆い被さるようにして交わっているのが見えた。部屋は暗くて、顔までは確認できない。鈍器で殴られたような衝撃が私を襲い、とんでもない場面に遭遇してしまったと自覚する。女は限界が近いようで、あられもない声を一際大きく出している。もう殆ど叫び声に近かった。私はその場に足を縫い付けられたかのように身動き一つ取れなかった。  事が終わると、女は甘い声で男の名を口にした。神谷。あの綺麗な顔の男だ。当然そういう経験はあるのだろうと察してはいたが、まさかその現場に遭遇するとは思いもよらなかった。しかも、校内でだなんて。二人の会話から推察するに、今日が初めてでは無いようで、日常的に教室や階段の影で肌を重ねているようだった。バレたらどうしようとは思わないのだろうか?そんなことを思いながらも、彼の大胆さに妙に納得してしまう自分がいた。あの顔に抱かれるというのは、どんな気持ちなのだろう。先刻のあられもない女の声が脳裏に響いて思わず赤面する。それから私は何かに取り憑かれたように彼らのセックスを覗くようになった。  神谷に特定の女はいないようだったが、関係があるのはどうやら三人で、いつも女の方から誘う形でそれは始まる。私は息を殺してその様子を伺い、神谷が女をどのように抱くのかを見ていた。齢十八にして、些か厄介な癖が出来てしまったが、それを辞める事は叶わなかった。  始まりはいつも食むような口付けからだった。形の良い神谷の唇が女のそれに重なり、椿のように紅い舌がねじ込まれ、次第に深くなっていく。溶けそうな女の顔を見て、私は心底羨ましいと思った。何時の間にか私は、神谷に恋い焦がれており、いつか目の前の女に成り代わり、抱かれたいと強く願うようになっていた。  そんな想いが募る中、私の密かな愉しみは急な終焉を迎える。 「キミさ、オレがヤッてるの隠れて見てるよね?」 「え、…あ、あの」 「バレてないと思った?結構前から気付いてたんだよね」 「な、なん、で」 「だってキミ、隠れるの下手なんだもん」  貼り付けたような笑顔で教室の隅に追い詰められる。言い方は優しげだが感情が読めず、怖いと思った。神谷の顔を見ることができず、俯いていると、ふわりと白檀の香りが鼻孔をかすめた。私の恋い焦がれた彼の香りに思わず顔を赤くすると、私の脚の間を割って神谷の膝が入って来た。 「えっ、ちょっ、まっ……」 「あはは。すごい、濡れてるね」  私の大切な場所をぐりぐりと膝で押し付けて、愉快そうに嗤う。 「オレまだ何もしてないのに、何でこんななってんの?」  私は恥ずかしくて何も言えずに下唇を噛み締める。自分がとんだ変態になっていたと自覚させられ、羞恥で死にたくなった。目の前の男は、そんな私を見て肩を震わせている。そして、壁に手を付いて私に顔を寄せると、空いた方の手で私の唇に触れた。  正直、私は期待していた。その形の良い唇で、食むような口付けが与えられることを。 「……期待しちゃった?残念でした」  触れていた手も、彼の身体も、驚くほど早く私から離れた。私はとても間抜けな顔をして、事態を呑み込めずにいた。 「他人のセックスを見るのが趣味な女ってどうかと思うんだよね。オレをオカズにしてたのか知らないけど、あんま気分良く無いからもうしないでね」  軽やかな口調でそう言うと、彼は私をそこへ置き去りにした。それが私と神谷の最初で最後の関わりだった。
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