雨くんの台所

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雨くんの台所

「頼もしい限りだね。じゃあ、頼むよ」  天狗がそう言って、もう一度雨の視線が台所に向いた時には信じられないほど手入れの行き届いた空間に変化していた。使用感もなく、ただあるだけの台所に手が行き届き、先程まではなかった食物すらも籠に入って置かれている。なにが起きたのか、問うても天狗は「そういうものだよ」と笑うばかりであった。 「天狗様にとってはこんな小さな部屋の手入れなど簡単なことだ。この屋敷の庭も、ほんのひと扇ぎで整える。今日もその手入れに戻ったのだと、先程言っていた」 「ひと扇ぎ? あの庭をですか?」 「そういうものだ」  まるで天狗の言葉を真似ているような言葉を選んだ縁は背を丸めてかまどの火を吹き、オウとカミの二匹は煙に当たらぬようかまどとは対極の壁で眠っている。  案内と台所の用意をほんの僅かな時間で終えた天狗は颯爽と去っていった。いや、颯爽だったのだろうと思う。なにしろ雨がひと吹きの風に目を閉じた瞬間にはもうその姿はなくなっていたからだ。  雪が静なら、天狗が動だろうか。互いの持つ穏やかさも種類が違う。かたや真っ白な雪原に同色で落ちていく冬の日に、かたや自ら賑わう一面の桜並木のような。  仲が良いだけ、彼等は上手くかみ合うように出来た正反対の存在のようだと雨は思った。 「雨、これで良いのかわからない」 「え? あ、はい。大丈夫です、それで合ってますので、一旦休んでいて下さい」 「雨はなにをしている」 「魚のハラを抜いていました。ここがないと口にした時に苦くありません」 「苦い?」 「縁はもしかして生で食べていましたか?」 「焼いても苦いと思ったことはない」 「誰が焼いていたんです?」 「天狗様が扇いだ」 「なるほど」  ここまで来てしまえば納得も容易くなってしまった。雨は魚を串刺しつつ、この作業も扇いでもらえたら良かったのかもしれないと、ほんの少しだけ考えてしまった。 「縁は、雪様と一緒に花は食べなかったのですか」 「木の実は食べるが、花には興味がない」  串に差し終えた魚を三尾、炉に立てるとじんわりと雨の手が温まった。縁は背後でオウとカミの元に戻り、少々煙い彼の着物に、わからないが、そうだろうと思えるだけ二匹の頭が床から持ち上がって首を引いた。理解出来る種族間ならば、きっと今オウとカミは相当に嫌な顔をしているに違いない。  理解、理解だ。  人は、鬼を誤解しているのだろうか。それとも〝そうなって〟しまうだけ大昔にいざこざがあったのかもしれない。そうでもなければ人の口から伝わる鬼というものが如何に恐ろしく、如何に悪であるかと一寸の違いもなく広まるはずもない。  その発端があり、そのせいで今も尚種族間の距離が縮まらず、人は鬼を恐れ続けているのだろうか。恐らく、本質は知らず。  だが、やはりあまりにも違う。雪は鬼は鬼でも、人が恐れる種族の鬼ではないのかもしれない。雨が知らないだけ、本当は鬼にも多くの種類があって、雪はその中でも飛び抜けて大人しい種類なのかもしれない。  花を食べ、可憐なかおりのする鬼が恐怖の象徴のような生き物には到底思えはしない。  雨が見聞きした中で人の伝える鬼に花は似合わない。血や肉や、口から下がるのは人の首でもおかしくはなかった。 「……雪様は、どうして人を食べない鬼なのでしょう」 「わからない。わからないが――」  炉に立てた魚が脂を落としてぱちりと鳴る。オウとカミの体温で眠気が差したのだろう縁の声は、その音に負けじと小さなものだった。 「昔聞いた。雪様は鬼らしくないせいで鬼の里を出されたのだと。そのせいで名も持たず、子供の頃に外に出たのだと」  言葉を最後まで聞きとる前に雨は縁へと顔を向けていた。耳を疑ったのだ。〝鬼らしくない〟〝そのせいで〟、そんなことで同胞を追い出すとはまるで〝人のよう〟だ。 「……鬼らしくないとは、怖くないということですか?」 「いや、雪様も他の鬼と同じように〝笑う力〟を持っている。ただ、その力以外が全て鬼らしくはない。言えば、〝笑う力〟以外にはそれらしい角しか持たなかったと言った」 「それだけでですか?」 「それが鬼の一族には重要なんだ。と思う」 「そんな、私から見れば雪様は十分鬼の姿をしています」 「雨は本物の鬼を見たことがあるのか?」 「いいえ。けれど、人といると皆鬼を怖がるので鬼の姿に想像はつきます。だから、私は雪様に驚きました。聞いていたような、とてつもなく恐ろしい存在には思えなくて」 「そうだ、だから雪様は鬼らしくないんだ」  オウとカミに背中と頭を乗せていた縁はその上体を起こす。そうして雨に向き合い、なにか察したようだった。 「鬼の里にいる鬼たちは、小さくても雪様の三倍はある程の大きさなんだ。なんなら一族とは色も違う、雪様の里の鬼は雪様と反対の色をしている。だから、雪様は鬼の里にはいられなかった」  それでは、それでは人が自分にしたことのようだ――  人が雨を違うものとして扱って来たのには明確に〝人には出来ないことが出来た〟という理由がある。だが見た目は人と変わらない、だが決定的に人にはないものがあった。  だが、鬼は。  雪は鬼らしくはないとしても鬼の力は持っていて、大きさは違えど鬼の姿をしている。色味も、縁は反対なのだと言った。では、やはり鬼が持つものは全て盛っているのではないのか。  鬼はなにを基準として、雪を〝らしくない〟と定めたというのだろうか。殆ど変わりないにしても里を出すだけ大きな問題がどれなのか、現状雨には理解が出来なかった。 「でも、そんなに雪様と鬼の姿に差があるのだとしたら、人も雪様をそこまで恐れることもないのではありませんか?」 「人の前に下りて来ているのは皆、雪様と同じく里を出された鬼なんだ。本来の鬼はそうそう里を出ることもない。だから、人にとっての鬼は雪様のような姿で間違いはない」  名も持たず、名づけられもせずに棲み処を出された雪にこんな自分が名を与えてしまった。安易に考え、安易に与えてしまった。もしかしたら雪にとっては重要な意味があったのかもしれない部分に、不躾にも踏み込んでしまったかもしれない。  思い出してしまっただろうか、名を持たない理由を、得られなかった理由を。里をでなければならなくなったことを。  焼ける魚の肌のようだ。雨の心は痛む、この痛み以上に取り返しのつかない痛みを雪にも与えていなければ良いのだが。
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