雨くんと鬼くん

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雨くんと鬼くん

「それでは話と違う」  深い緑の着物を着た少年は自身よりも年上の男に物怖じせずに言い放った。言葉を受けた男は視線を地面に落として背を丸める、そうして頭を下げながら口ごもった。  けれど男が少年に怖じているのはその態度からなどではなかった。少年の頭に生えた人にはない耳と腰から伸びた獣の尻尾、その二点に合わせて彼の背後に佇むもう一人の青年に対しての恐怖からだった。 「すんません、でも、こうも雨が降らないと、そもそもなんにも出来もしなくて……」 「それでもこの誓約は百年も前から同じなはずだ」 「でも、俺らにも先の天気なんて想像もつかねえし……」 「どうしろと言うのだ。誓約を決めたのはそもそもお前達だ。自分達が決めたことを違える上にこちらに被れと言うのか」  頭を垂れたままの男はまたも同じ言葉を繰り返す。「すんません」「すんません」と続く返答に五度目で少年も遂に黙った。だが、男の言わぬ要望を飲み込んだわけでもなかった。  黙った少年は背後にいるもう一人の青年に目を合わせた。そうして呼んだ、「鬼様」と。 「どうしますか、ないと言います」 「ッイ! ち、違う違う、違うんだ! ないんじゃない、とれないんだ!」 「だが、お前はずっと断り続けたではないか」 「違うんだ! ないものを渡せはしないって、断ったわけじゃあねえ!」 「だが、どうするのかすら答えないではないか」 「……っ違うんだ、だから!」 「おら! 仕事だ!」  男が上げた声を上回る大声が辺り一面に響き渡り、周囲の目を一気に引き寄せた。畑で働く男達も、子供を連れて歩く女も顔を向けたが、その場で繰り広げられている状況に眉を顰めて子供の顔を袖で覆い来た道を引き返すような角度で離れていった。  大声を上げた男は三人いた。一人はなにもせずに立っているが二人は真下にいる小さな塊に凄んだ言葉を浴びせて拳を振り上げた。もう一人の男の足は既にその塊を蹴り上げたばかりで、なにもしていないように見える男の悪を露わにした瞬間になった。 「ああ、あいつら、なにもこんなところで……」  少年に頭を垂れ続けていた男は後頭部を押さえ、そのまま、大きなため息を吐き尽くした後で観念し、少年に向き直った。しかし目線は合わない。状況の悪さを、男自身も感じているようだった。 「あれは〝(あめ)〟です。天気の雨じゃなくて、そういう名の」  三人の男達に囲まれているのはなにか無機物なわけでもなく、身を守るように縮こまった人間の姿だった。男はそれを指して(あめ)という。それが、その人間の名なのだと言う。 「あれはなにかをしたのか」  少年は表情のひとつも変えずに言うが、顔や声よりもその人の体にはない部分がはっきりと感情を表していた。腰から生えた灰茶の尻尾が左右にぶんぶんと揺れ、気づいて上げた男の視線には黒髪に並ぶように反った耳が頭部にあった。苛立っている、尚更、男は少年達へと目を向けられなくなってしまった。 「いえ、あの……日照りが続いているもんで、俺達も困って。だから、隣村から連れて来たんです。あれは(あめ)と言って、あれが泣けば一帯は雨が降ります。だから、」 「殴って泣かせるのか」  男は、瞬時に息を殺した。いや、死んだのかもしれない。その声はそれまで話していた少年のものとは違っていたからだ。低く、まるで感情の表れない声質だった。  鬼が声を出した。この日、一日その声を聞かずに済めば穏便に終わるはずだった。  獣の耳と尻尾を持った少年の背後に控えていた鬼は、見た目こそ少年よりやや〝人間〟らしい。だが、その額には黒い角がある。金色の目の上、額の真っ白な髪の隙間から尖ったそれが二本、伸びている。  着る着物も平民のそれではない。藍に金の刺繍の入った着物に赤に煌びやかな模様の入った羽織を肩に流し、絢爛豪華で、下手をすると男のような立場では一生目にすることすらなく人生を終えてしまうだけ特別なものだった。  それを献上されるだけ高い、人間からこの鬼への恐怖の度合いは。この鬼はけして怒らせてはならないと知れているのだ。人の中で位の高い人物が、その着物を捧げて鎮めようとしてしまう程に。  男は全身を強張らせたまま、答える言葉も浮かばぬ頭から脂汗を滲ませて細かに震えた。鬼の声を聞かずに終われば安泰、聞いてしまえば、ただでは済まずに終わる。 「おい、聞いている」  痺れを切らしたように人と獣が混じったような少年が言う。人が鬼になってしまったかのような青年は言葉は発さず、その目を拳を振り上げ声を荒げる男達へと向けていた。 「いえ、いえ……普段はそんなことはしないんです。けど、今はもう、本当に困って、皆気が立っているんです。食うもんも安心がないし、あんたらにもどうにも出来なくなっちまう」 「人同士ならば言えばいい。言って拒まれるから殴るのだろう。ということは、拒まれるようなことをしたということではないか」 「いえ、いえやめて下さいそんな……! けしてそんな!」 「鬼様」  「どうしますか」、まるでそう言いたげな声音に、男は言葉を飲み込んで固まった。――のと、同時。  三人の男に囲まれ足蹴にされ、拳を振りかざされていた塊がむくりと頭を擡げ、泣きはらした目が〝こちら〟を向いた。その目と合ったのが、鬼の目だった。  不思議な青の髪を顔に張り付けた(あめ)の顔は、縋るように鬼へと向けられたまま、向かって下ろされた男の足蹴で勢いよく地面に倒れてしまった。  途端、雨が降った。人の名ではなく、本物の天気の雨が勢いよく空から地面に降り注いだ。  (あめ)を囲む男達は空を見上げ、喜び腕を上げた。人と獣が混じったような少年と人が鬼になってしまったかのような青年の元にいる男もまた、喜びの声を、上げてしまった。  上げてしまったのだ。  男が自分の失態に気が付いた時には既に遅く、その耳には抑揚すらも変わった鬼の声が聞こえていた。笑っていた、声は確かに笑っていた。 「そんなに雨が愛しいか」  男は振り返る間もなく、鬼が笑った。高らかに響くその声は、地面を打ち鳴らす雨の音さえも割って周囲の人間の目を引き寄せた。それらは全て絶望に染まり、一瞬の慈雨が最後の喜びとなった。  鬼が笑った。この瞬間を最後に、二度とこの土地に雨が降ることはなくなった。
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