雨くんと狼くん

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雨くんと狼くん

「……」  目が覚めた時には何故自分が今目覚めたのかもわからなくなっていた。微睡む意識と視界が徐々に輪郭を持って形となり、体が横たわっていることと、どこか屋根のある場所にいるらしいことと時間も明るい内だということは理解出来た。においがする、緑というよりは花のにおいだ。どこだろう、とても静かで穏やかな空気だった。  殆ど目覚めた雨が寝返りと打つと左半身をせき止めるようなものがある。けれど壁とは違う、なにか、柔らかく温かい。ならばと今度は反対側に寝返りを打つもそちらにも体をせき止める同じ感触がある。左半身のものよりもやや少しだけ下にある。左が胴で、右が腿をせき止めているようだった。  柔らかく、温かい。雨の中にいたはずが、とても温かかった。 「無事か」 「! はい!」  はっきりとしない意識の中でかけられた声に雨は微睡む世界から飛び起きた。すぐに反応せねばならない理由が体に染みついている所為もあったかもしれない。視界に映るものが途端鮮明に見え、声の主もしっかりと捉えた。少年がいる、真っ黒な髪から灰茶の獣の耳が飛び出している半分獣のような少年が。  少年の背後には光が差し込む障子が連なり、ここが恐らく彼の家なのだろうと察したが雨の目は彼の頭部にある耳にくぎ付けになってそれ以外の情報を目から引き出せずにいた。 「……」 「耳だ、ただの」 「あ! いえ、すみません」 「だが見ている。耳だ、ただの」 「ただのという感じはしないのですが……」 「俺には確かに耳があるが、お前も雨を降らせたではないか」 「雨……」  布団から起こした体が急に冷えていくような気分になった。  今、雨の視界に入る自身の腕には残らずにいるが痛むのはそもそもそこではない。きっと、背中や足にはそれが残っているだろうし、頭も痛む。  冷たい土の感触や、向けられる沢山の力が全身に出戻っていくように気怠さが内に溜まって重くなる。自分のたった二本の腕さえも、泥が詰まったような鈍い重さに落ちていく。 「……」  黙りこくっていると、正面の少年は言葉も発さず動きもしないというのに伏せた雨の視界でなにか黒いものが動いた。丁度視界の左半分、そこは少年に声をかけられる前に雨の右足をせき止めていたものがあった場所だった。 「!」  驚きのあまり、雨の喉からは悲鳴すらも出ず体だけが真っ先に反対方向へと逃げてしまった。すると広がった視野にはそれがもうひとつ増え、今度ははっきりと声が出てしまう。雨は自分の頭を乗せていた枕さえも越え、遂に畳にまで出て逃げたがその状況でも獣の耳を持つ少年はなにも言わない。  暫くは理解出来ないでいた雨だが、少年に助けを求めて目を向ける度に状況への理解が追い付いて行った。同じだ。そう、彼の耳と、彼等の耳が。 「……おおかみ、おおかみ、ですか」 「そうだ、だから耳がある」  雨の左の胴と右の足をせき止めていたものは、少年の耳と同じ灰茶をした狼だった。  きっと、雨の体に沿って寝そべっていたのだろう。温めようとしていてくれたのかもしれない、それはもう本当に心地良い感触だった。  二匹は静かに伏せてはいるもののやはりその圧や迫力は凄まじい。鋭い目、爪の覗く前足の迫力もある所為か正座して並んでいる少年の目線からは低いはずがそれでも二匹の狼の方が大きく見えてしまうのだ。 「おおかみ……」 「見るのは初めてか」 「はい。その、はい、特にこんな距離では……」 「かみ付きも食いもしない」 「……はい」 「信用していないか」 「その、慣れていないもので……親御さんですか?」 「流石にそういうわけではない」  少年は、近場にいる雨の右足をせき止めていた狼に手を伸ばすと肩の当たりに手のひらを置いた。少年の肌色が沈んでしまうだけふかふかとした毛並みは荒々しい狼の印象には反して手入れが行き届いたように上品で美しかった。  狼は触れられることになんの咎めもなく落ち着いている。そうして少年へと鼻を向けると話してでもいるというのか、目線を合わせていた。 「これは仲間だ。人より、狼が仲間になった」  少年の手が狼の肩を叩く。それに返答してか、狼はふんと鼻を鳴らして雨に向けた。  二匹と半分の圧が強い。説明をされたとしても残念ながら雨自身は狼と交わせる言葉を持たず未だ警戒と身構えが解けきることにはならなかった。それでもそっと、布団に膝が乗るかというところまでは戻った。狼は少年との〝やり取り〟で把握出来ているようでじっと動かない。  仕切り直し、と雨は周囲を改めて見まわした。少年の背後と雨の正面には障子が連なっていて恐らくその先は縁側にでも出るのではないか。白い紙の向こう側がとても明るい、その上微睡んでいた最中から花の香りが漂ってさえいたからだ。  雨の左側には白い壁、つい先ほど逃げた側には床の間があって、掛け軸はないが違い棚の上には白い花が活けてあった。だが、雨の感じていた花の香りはそれではない。たった一本、それだけで香るような強さではないのだ。  そして、残すは布団。白いそれの上には二匹の灰茶の狼と、半分の少年が脇に控えている。 「……あの、私はどうしてここにいるのでしょう」 「お前が雨を降らせた場に居合わせた。お前の状況を見て、鬼様は見兼ねてお前を救った」 「救った? では、……そうですか、あの場に……」 「雨を降らせられるのなら奴等が近づけぬだけ降らしてやればいいものを」  口ごもって体ごと小さくなってしまいそうな雨に少年は間髪を入れずに言った。その声に悪意さえないものの内容はきつく、はっきりと〝その現場〟を見ていたのだと明らかになってしまった。  知られたくなかったわけではない。けれど、どうしてか見せてしまったことに心が痛む。 「……それが、そうもいかないんです」 「何故だ、出来るのだろう」 「それが、そう簡単にではないんです……」  また、雨は口ごもっていく。  実際、自分のことながら雨自身にもよくわからない部分がある。  自覚している部分、雨が降るには強い感情が必要だった。それもあまり良くはない感情へと振り切らなければならないのだ。  だが、雨を降らせる条件が極めて感情的であるはずが、反して雨を降らせようとする人間から受ける力にはどうしてなのか直結し難い。ただ暴力を振るわれて痛い、嫌だというだけでは雨は降らない。何故なのか、本当に自分でもよく分からないのだが、  説明が難しかった。自分の理解と、初対面であるこの少年に伝わりきるかの自信も薄くつい黙りこくってしまった。  伏せた雨の視界に、再び動く黒いものが映り込んで反射的に「どれだ」と身構えてしまったが、把握出来た所で雨の心は少しばかり和らいだ。  灰茶の狼が布団に完全に伏せた状態で目だけを雨に向けていた。鋭い爪が覗く前足より鼻先が出てしまわないよう揃えてでもいるのか、〝彼〟なりの雨への配慮が感じられる。「ここから先へは行かないから安心しろ、そうじゃない部分も」、雨にわかるはずもないのだが、狼にこうもそれらしい感情表現が出来るのか。  雨にはそう言われているような気がしてならず、思わず笑み返してしまった。すると狼の尻尾が跳ねるように動いた。隠し切れない感情が、あちこちに出てしまう性分のようだった。 「なんだ」  半分の少年が言う。狼は変わらず伏せたままで大きな尻尾を僅かに上下へ揺らしてしまう。左にいるもう一匹の狼は凛としたままで澄ましていて、同じようで全員がどれも違う様が面白く思えてしまった。 「その、私を救って下さった方はどこです?」 「庭にいらっしゃる」  灰茶の耳を動かして「はず」と立ち上がる少年の腰には狼達と同じだけ立派な灰茶の尻尾が下がっており、雨は思わず「耳だけじゃないじゃないですか!」と声を上げてしまってから両手で口を押えた。
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