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雨くんと鬼くんのド緊張
「鬼様」
当然のことながら半分の少年が躊躇いなく彼の元へと歩むので雨もその後に続く他なかった。心の準備はたどり着くまでに終えなければならない。そう思っていたのはつい先ほど、今はもう、彼の目の前にまで来てしまっていた。
小さくはないと思っていた半分の少年が、彼の前に立つと思いがけずに大きな差があった。灰茶の耳が角度を変える程鬼の背が高い。雨に至っては思い切って見上げなくては彼との視線が合いそうにもない。事実、雨はもう殆ど顎を上げきるような姿勢にまでなっていた。
そして、雨が見上げたその先には彼の頭部がある。目の前の雨たちに俯くこともなく視線だけが落とされる金色の目の上、その、額を隠す真っ白な髪の間から、黒く鋭い角が二本覗いている。鬼だ、本物の鬼だった。
「雨が起きました」
「そうか」
「大事はないようですが、本当は痛むのだと思います」
「そうだろう。天狗が置いている薬で効き目が合いそうなものを使え。人に合うものかどうかは必ず慎重に」
「わかりました。では雨は置いて行きます」
「え!?」
今の一瞬で、聞き捨てならないものばかりであった。
半分の少年は既に背中を見せており、雨と共に来た道を行きとは全く違った速度で早々とその姿を花の中へと消していった。もう上下する頭部とそこに覗く灰茶の耳しか確認出来ていない。本当に置いていってしまった、有言実行の速度が尋常ではない。
迂闊にも半分の少年へと向けてしまった顔を、雨は戻すのに難儀していた。もう一度、改めての初めましてが待っている。まずは礼であろうが、けれどどういった人柄なのかもわからないのでは言葉を選ぶのも難しい。いや鬼柄なのかこの場合は。
そう、そもそも鬼なのだ。怒らせてはならない、鬼は、けして怒らせてはならない。怒った鬼は笑う、鬼が笑うと禍となり全てが奪われる。その時願った、なにもかもが。死にたくないと願ったその、命乞いすらも。
「……」
意識しても真一文字になってしまった口が引き攣るばかりで、いっそ笑顔は作らない方がマシだったのかもしれない。けれど雨は精一杯の笑顔で振り向いた。届くかわからないが、見上げた先の鬼へと向けて。
「……雨と申します……」
なにも、言わない。
「あの、助けて下さったと聞きました。先程の方に。それで、あの」
突然、動いた。いや、急にというわけでもない。だが鬼が動いた衝撃でつい、雨の言葉は飲み込まれてしまった。
鬼はその長身を揺らめかせ、雨の想像とは裏腹にとても静かに、緩やかに動いた。ゆったりと、雨にしては数歩分ほどの距離を一歩で縮める。いや半歩なのかもしれない。
いよいよ完全に雨の体が強張った距離になるとまたしてもゆったりとその体が沈んだ。鬼は、雨との視線を合わせる為にしゃがみ込んだのだ。雨の目線少し下には鬼の頭部がある、黒く鋭い角が目前に迫る。けれど圧すわけでもなく、地面に膝をつき、美しく豪華な着物に砂や草を敷いてまでして鬼は雨をほんの少しばかり見上げていた。とてもとても、美しい金色の目で。
「あの……」
その姿にも目にも、向けられている角にさえかの悪名高き鬼の圧は微塵も感じられなかった。無表情には近いが悪意がないとでも言うべきか、ただ、こちらを見ているというだけだった。
雨が飲んだ言葉をもう一度口に出すのを戸惑い、鬼の動向を窺って暫し、それでも鬼はなにをするわけでもなく雨をほんの少し見上げ続けた。もしやこれは、自分の話を集中して聞いているだけなのかもしれないとも思ったが、それにしても反応が鈍すぎやしないかとも同時に思った。混乱する、様々なものが雨の中で食い違って反対方向に離れてしまった。
けれど、跪く鬼など見た事も、人の口から聞いた試しもない。なにより、少なくとも雨の目にはこれまで雨を虐げて来た人間などよりもずっと穏やかな存在に見える。鬼だろうと人だろうと、他のどんな生き物であろうとこうして見上げてもらえたことなど、雨の人生に一度でもあっただろうか。
「……あの、お見苦しいものを見せてしまったのだと思います」
頷くことさえないが、鬼は雨の言葉をひとつも遮ることなく静かに聞いている。
「助けて下さって、ありがとうございます」
感情の読み取れない表情で鬼は見上げる。そうして緩やかな間が開いた後、漸くその口が動いた。
「痛むのだろう」
「っえ、あ、いえ大丈夫ですので」
「狼には隠していてもわかるものだ。生物の弱りがわかる」
「……いえ、でも」
「ここに人はいない。安心して休め」
「でも、それではよくして頂きすぎです」
「そうじゃない。そう思う必要もない」
「でも」
「ここには俺と狼と、時々人ではないものが来るが人は来もしない。安全だと言い切ろう。だから、嫌だと思えるまでは、ここに」
鬼は表情こそ変えずにいるが徐々にその目を伏せた。言葉尻も同じようにしぼんでいく。まさか雨の状況を知って悲しむわけでもないはずが、無表情の鬼がどうしてか雨の目には〝そう〟見えていた。
伏せられた目が光の具合で単色ではなくなって、翳りで生まれた濃淡がその目の中で泳ぐようであまりに美しかった。思わず雨は答える言葉も考えられず、ただただ鬼の目を見ていてしまった。
やがて、雨が言葉を失っている間に穏やかに立ち上がった鬼はその場を去って行ってしまった。去り際に「大事に」と気遣う言葉も頭上からは降ることもなく。きっと立ち上がる間際にそう言った。けれど金色に奪われていた意識がはっきりとする前のことで、気が付けば鬼は少し離れた所で雨に背を向け歩いていた。
あれが鬼だろうか、本当に。人々が言う鬼なのだろうか。
鬼の体が沈む時、立ち上がる時、空気を含んだ着物が降りると周囲の花々と同じだけ良い香りがした。まるで〝鬼〟らしくもない、愛らしい花の香りだった。
緩やかに動いて、骨の裏側を撫でるかのような静かな声で穏やかに話す。雨の聞き知っている鬼とは、まるで違う存在だった。
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