雨くんと狼くんたちと名前

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雨くんと狼くんたちと名前

「そんなことを一日中考えていたのか」  本当に、言われた通り雨は鬼の屋敷で体を休めた。と言うよりは鬼が去った後にもう一度半分の少年と再会して彼等の言う〝天狗の薬〟を塗ってもらった頃には既に力が抜け、本当に泥のように眠ってしまっていたのだ。  もう一度目を覚ました時には暗闇で、恐らく半分の少年が灯していったのであろう火も小さく消えかけていた。あまりにも図々しい、しかしこれまでこんなにもまともな場所でこんなにも力を抜けることもなかった所為もあって雨は吸い込まれるように眠りに落ちては目覚めを繰り返し、まるで一生分の疲れを癒すように夜になるまで眠りこけてしまったのだった。  そうして夜中に目覚めてしまって、そこからが本題だった。眠れない、眠り過ぎた所為でこれ以上眠れないのではなくて、ある程度まで覚醒してしまった頭に残ったものが起きる度にも、夢の中にも同じものが出てきてしまって眠れぬ夜を明けてしまったのだ。  それを今、部屋に訪れた半分の少年と狼達に打ち明けている。〝天狗の薬〟を背中に塗る彼の表情は確認出来はしないが、恐らくせずとも変わりはしない。 「一日中ではありません。度々です、度々」 「では都度ではないか」 「いえ、ですから時々です」  今のは狼たちのものか、それとも薬を塗る手の持ち主のものか。呆れとも面倒でともとれてしまう息が漏れて聞こえて、雨は思わず振り向いた。 「時々です」 「どれでもかまわない。それにどれであっても鬼様は香など焚かない」 「では、自然に香るとでも?」 「香は狼の鼻に悪い。だから、もしそうなのであれば鬼様は俺たちにまず話す。それがなかったのだとしたらそんなことはない」 「でも」 「鬼様はいつもこの屋敷にいる。着物についた香りはこの屋敷の庭園にある花のどれかだろう。きっと、同じ香りの花がどこかにある」  あまりにも良い香りだった。愛らしく、可憐で繊細な。周囲の花々とはまた少し違っていて、これが鬼のにおいなのかと納得出来てしまうだけ彼の姿によく似合っていた。  一体なんの香りなのか。  雨は、昨日鬼から香った愛らしい香りが鼻や頭の中に残ってどうにも消えずにいた。それが夢にまで香る。気になって気になって仕方がなく、薬を塗りに現れた半分の少年と狼たちを前に打ち明けたのだ。あれは一体なんの香りであるのかと。  だが、半分の少年が言うにはそれらしい香りのものを鬼は身に着けていない。香すらも焚かずにどうしてあんな香りがするというのか。 「……香は駄目でも花は大丈夫なんですね」 「狼たちは口に入れてはならない草花の種類はわかる」 「それは、あなたも同じなんですか?」 「知らぬ。口に入れてはならないと知っているから入れたことがない」 「では、……ええと……」  一日が経って、背中に薬を塗られるだけ世話になってからやっと、雨は気が付いてしまった。この、半分の少年の名を知らない。それどころか、自分を救ってくれた鬼の名すらも聞かずに過ごしてしまった。それもほとんどを眠りこけて。 「あの、あなたの名前を知りません。そちらの、その、お二方の名前も」 「名前?」 「はい。私は雨といいます」 「知っている」 「あなたは?」 「名はない」 「あなたも、そちらのお二方も?」 「ない」  雨が二匹と一人に視線を巡らせるように半分の少年もまた二匹と目を合わせていった。奇妙な間が雨の前に鎮座する。それがやがて雨へと向けられて、困ってしまった。 「では、あの方のお名前は?」 「鬼様か」 「はい」 「鬼様は鬼様だ」 「……つまり、ここにいる方皆さん名前がないと」 「ない。鬼様は俺のことはお前と言う。鬼様のことは鬼様で、狼たちは狼だ」 「ううん……」 「何故不満だ」 「不満なのではありません。不便なのです」 「俺も狼たちも鬼様も気にしない」 「私が気にします。気にしますし、不便です」 「では、どうする」  狼たちも半分の少年もじっと雨を見る。雨も同じように彼等を見るが、その目はそれぞれを観察するように忙しい。 「……」 「……」 (……) 「私に名づけに良い趣味などありません……」  雨は、まず狼たちを見た。人の姿である半分の少年よりは幾らか特徴も掴みやすく、また嫌がられてしまう可能性も低いと見てだった。  だが、この二匹では人の言葉もわかってしまうのか。雨は呻り、呻る雨の背中に半分の少年が薬塗りを続けてた。 「……オウとカミではどうでしょう……」 「オオカミからか」 「わかってしまいますよね……ですが、お二人とも同じ色で、見た目にこうといった特徴がないもので」 「いや、良いのではないか。これまでとさほどかわらないのが良い」  薬を塗り終えた手を手拭いで拭いて、半分の少年は狼たちに振り向くと左に向かって「オウ」、右に向かって「カミ」と言った。勿論、狼たちの顔色が変化することも賛否の声も聞こえやしない。けれどそれに相応するようにオウが左耳を動かし、カミが尻尾をひと上げした。それを雨の解釈でまとめると賛でも否でもなく「どちらでも」と受け取れてしまったのが少々悲しい。 「次は俺か」 「ええと……」  今度こそ下手な文字を並べられない。しかし、狼たちに答える前に雨の中には既に彼の名前があった。似合うとか、意味合いといったわけでもなく、これも目から入る情報ひとつによるものなのだが。 「縁ではどうでしょう」 「えにし?」 「はい。ええと、着物が深い緑だったので、でも緑では少しどうかと思って、似ている字の、縁で」 「えにし……」  飲み込み切れないイノシシ肉でも噛み続けるような顔だった。文句を言われてしまう、雨がその口を堪えるように真一文字に引いた時だった。  ぶん、と音がなって灰茶の尻尾がオウの顎を振り、カミの頭部を撫でた。それが半分の少年のものだとわかったのはオウとカミの二匹が互いに目を合わせてから半分の少年の後頭部を見つめ始めたからだった。  半分の少年の腰から下がる灰茶の尻尾が、無表情の顔に反してばたばたと動くのだ。噛み合わない顔と尻尾の荒業に暫し困惑したが、オウとカミの二匹の様子も加味して半分の少年が名を受け入れてくれたのだろうと雨は安心と納得をした。
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