鬼くんの恥と疎さと天狗くんの庭

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鬼くんの恥と疎さと天狗くんの庭

 あんなに可愛い生き物があるだろうか。  いや、少なくとも生まれから百年見たためしがない。この目で初めてのこと、あまりの愛らしさに後先も考えなかった。ましてや泣いていた。そんなにも愛らしい生き物が。  合った視線がいくつもの青を揺らがせた目で、まるで縋られたようで屋敷に持ち帰る以外の選択肢もなかった。気が付けば笑い、崩れ落ちる人の群衆の中青い目はもう閉じられていた。  意識をなくしたあの体を抱き上げてもあまりにか細く、儚い。こんな生き物を殴る蹴るしていた人を許せるはずもなくもう一度、いっそ土地ごと根刮ぎに笑ってしまおうかとさえ思った。けれど、留まった。腕の中に納めた雨があまりに愛しく、笑う手間もかけていられなかったのだ。  いつまでも見ていたい。閉じてしまった瞼を上げた姿を見たい。あの真っ青な目におさめてもらいたい。なんの重みも感じられないような体を傷付けぬよう大事に屋敷へ持ち帰る中も目が離せなかった。  可愛い、可愛い、愛らしい。  揺れる真っ青な髪が音が鳴りそうなほど軽やかで、どこもかしこもか細い体は細心をはらって護らねばすぐに壊れてしまいそうだった。  布団に寝かせた反動でか、腕から手放すのと共に閉じた瞼の隙間から涙が落ちた時には心がどうにかなりそうだった。麓に戻って、やはりあの村ごと根刮ぎに笑ってしまえば良かったと、本当にそう後悔した。  繊細で美しい睫毛から伝った涙を拭いてすぐに部屋を出た。手当てと世話を任せられる狼達がいて良かった。きっと、「それでなくとも」と言われかねない自分自身になにが出来るわけでもなく、その上役に立たなかったことだろう。  ただただ見ていただろう。ただただ愛らしさに眩暈を起こしていただろう。やがて気持ちも爆発していたかもしれない。  可愛い、美しい、愛しい。  心を、思考を感情を、たった一瞬で全てを握られてしまった。  屋敷の庭園の一角、池を見渡せる場所に置かれた床几台で鬼は肩を落としていた。けれど六尺三寸ほどもある体を腰かけさせても縮まりもしない。絢爛豪華な着物も邪魔をして、その肩を落としたところで意気消沈の様にも見えようはなかった。  鬼の手には萎れかけた白い花がある。その、か細い茎を指先で摘まみ、落とす視線はそこを更に抜けて地中にまで突き刺さっている。花を見つめているわけでもない、最早なにも見ていない目を地面に投げているだけの様だった。  その花は、鬼の手で昨日摘んだものだった。昨日、目覚めた雨に渡すつもりで摘んだものだった。  だが萎れかけたままで鬼の手にある。渡すつもりは「はずだった」にもなり、きっとこの後でも雨の手に渡ることはない。  庭園を凪ぐ風で草花が鳴る。秩序のある色の並びは美しく揺れ、風上にある花々の香りを鬼の元にまで運んだ。  人の手のかからない草花は自然に折れる以外には朽ちもしない。冬も春も夏も秋も、どんな時にでも美しい庭園は、けれど今この時、鬼の目に入りはしなかった。閉じていても開いていても、瞳孔が捉えているもののひとつも見えやしなかった。奪われたのは心だけでもなく、その目すらものようだった。  百年以上を生きて、まさか人に奪われるとは思いもしなかった。青い髪が消えない、青い目が消えない。両手に残った感触がいつまでも消えない。  思わず是非も聞かずに連れ帰ってしまうほど、一目で虜となってしまった。 「意識がないのをいいことにかい?」  突然の風が吹いた時点で把握していなかったわけではないにしろ、突如鬼の視界の左半分を埋めた顔に地面に突き刺さっていた鬼の視線はすぐさま持ち上がった。先ほどの風で〝戻った〟のは知れていた。近づく気配にも把握はしていたが、ここまで来ていたことには気がつけていなかった。  鬼の顔を覗き込む男は一本下駄で器用に屈みこみ、その金色の髪で鬼の視界に簾を作っている。少々撫でた肩から暗い緑の鈴懸と山吹の結袈裟が共にずり落ち、その彼の肩につくだけの長さの髪は丁度鬼の顔を隠しきってしまう。暗がった中で鬼の金色の目が彼の青の射した茶色の目へと物申す。「もう避けろ」と、表情には変わらない目でそう語った。 「連れ去ったと言われてもおかしくはないけれど、そうはならなかったみたいだね。そんな気配もないし、随分と楽しそうに感じる」  一本下駄を鳴らし、男は床几台の鬼の左横へと腰かけた。六尺三寸の鬼の横に並ぶと男の背中は優に一回りは小さい。その、今しがた閉じられた背中の黒い羽根さえ含まずの差ではあるが。 「好きになってしまったと」  金色の髪の男は左肘を膝に立てて頬杖をつき、鬼の顔を覗き込むかのような角度で言う。にたつくわけでもないが、その声には隠しきれていない笑みが含まれていた。 「惚れてしまったから連れて帰って来てしまったと」 「……」 「承諾もなしに。でもまあ本人も嫌がってはいない、不思議だね」 「……」 「馬鹿な権力者かなにかのような振る舞いをしたね、鬼だからと言って貢がれていないものを奪ってはどうかとも思うしね」 「では、どうしたらよかった」 「なにがだい? ……はあ、成程。それでは、引き離すのが確かにではあるのかもしれないね」  鬼が足りない言葉を更に口にせずとも男は言わんとする情報を汲み、都度そのまま応答を続ける。天狗である男にとってはそこに苦のひとつもない、寧ろこの言葉足らずの鬼に対しては情報の足りない言葉を多く発せられるよりもずっと楽な会話手段でもあった。お陰で無駄な言葉を発さずにいられるのだ、この場合、鬼も、天狗も。  頬杖で伏せていた体を擡げて天狗は庭園へと視線を向けた。大きな木々が花の行く手を阻むまで続く広い庭園の限りを、天狗はその境界をはっきりと知っている。それは特殊な力という意味でもなく、ここにいた者としての記録であった。  永いこと、変わらず同じ場所に同じ色の花がある。石に広がる苔の緑のひとつまで、いつに見ても一片の変化すらもなかった。それは天狗が〝そうする〟ことに鬼や狼もけして手を加えずそのままの状態を保ってここに生きているからだった。遠い遠い昔、天狗と共にこの屋敷に生きた幻影をそのまま繋ぎとめる我が儘を、鬼と狼が共に守り続けている賜物だった。  それが、鬼が天狗へ打ち明けた理由だった。雨を好いてしまったこと、それが人であるということを、言わねばならない原因だった。  天狗は当然それを理解している上で一瞬鬼へ返す言葉を考えたが、すぐにその必要もないことを悟り、その一瞬でも自分が困惑したしたことに自身の未熟さを覚えた。 「でも、人が人に酷いのなんて今に始まったことではないじゃないか」 「それは、そうだが」 「でも、そうだね」  左を上に組んだ足に天狗が再び頬杖をつくと鬼は彼の様子を窺うように視線を送った。天狗の目は細められ、なにかに集中するように一点だけを見つめている。暫し静けさが漂う、緩やかな風で草花の鳴る音だけが広がっていった。 「雨を降らすと」 「そうだ」 「自力ではないんだろ」 「人は泣くと、と言った。村で泣くと本当に雨が降った」 「感情に左右される現象なんだね」 「いや、わからない。狼には〝そう簡単なことではない〟と言ったらしい」 「では、自制の意識はないんだね」  天狗は頬杖にしていた左手で顎を擦り、更に考える。長年で培った知見とすり合わせて答えを出そうと試みているようだが、その頭脳にしては返答が遅い。まだ暫く鬼は黙って天狗の言葉を待った。  少しして漸く天狗の目が鬼へと向けられる。けれど、そこから発せられた言葉に鬼は困惑することとなった。 「これは本当に人かい?」  鬼には、思ってもみなかった言葉であった。 「……人ではないと言うのか?」 「私は君から人だと聞いて戻ったわけだけど、今現在この屋敷に人はいないよ」  鬼は本当に予期していなかったのだろう。どういうことか飲み込めず、半開きにした口を閉じることも出来ないでいた。 「ただ、君が見たようにこれは雨を降らせるんだろう? なのに術でないのなら人の中の力持ちでもない。人ではないとして私たちと同類であれば力を自制出来ていないのもおかしい。私たちと同類であれば自分にある力はずっと自分の中にあるもの、君の〝笑う〟も生まれた瞬間からあるもので自制出来ていて当然のことだろう? もし自制出来ていなければ私たちみたいなものは長生き出来ない。同胞か人に討伐されて死ぬか、自滅して死ぬだろう? なのに自制が出来ていないで生きながらえているなんて、どういうことなんだろうね?」 「……人でもなく、だが人には近い生き物ということか?」 「見てくれだけで言えばそうだけど。それに、どうしてそんなに目立つ生き物を人が囲っていられたんだい?」 「それは」 「私たちと同類であればそんな奇妙な生き物はすぐに広まる、それも良い意味ではなくてね。あそこには危ない生き物がいる、きっと何かと混じった生き物なんだろうとか。私たちの同胞は、らしくない生き物についてはとにかく排他的だからね」  口にする天狗は飄々としているが口調は刺々しく、加えて鬼は無表情のまま地面に視線を落として目を伏せた。  天狗も鬼も、見聞きしただけでもなくその排他についてはよく知っていたからだった。そう、そんな世界で雨のようなものが生きていれば自分たちが知らないわけがないのだ。 「天狗でも雨がなんなのかはわからないのか」 「わからないね。人ではないのはわかっても、じゃあなんだってなってもわからない。私の長寿と知見でもわからないとなれば君が人と間違うのも無理はないだろうね」 「……」 「君はきっと私に気を遣って〝人である雨〟をこの屋敷に置いても構わないかと問おうとしたんだろうけど、その部分については人ではないようだからもういいんじゃないかな。ただ、素性がしれない生き物っていうのはもう、私への伺いだけじゃどうにもならないね。この屋敷があるここら一帯を仕切っているのは意外なことに私じゃないから。伺いを立てるなら私じゃなくてそっちだろう。素性のわからない生き物を独断で土地にとどまらせて起きた問題はもう、多分鬼や私だけで止まるものじゃあないんじゃないかな」  『問題が起きる時には常に鬼』と言うのは人以外の生き物では常套のことだった。古来から、鬼は何故か問題を起こしやすい。同胞で多少の諍いは起きても、人までもが結託してどの種族もが関わる程の大きな問題を起こすのは決まって鬼が根源だった。  どうしてなのかはわからない。同種であるはずの鬼にも、永く生きた天狗にもその原因はわからない。  もっと、ずっと大昔にはあったのかもしれない理由もここまで来ると周知でもない。代はかわり、それぞれの関わりも変化していった。その上で常套の『問題が起きる時には常に鬼』という言葉だけが残って、原因だけが掻き消えていってしまったのだ。  最後に起きた鬼の問題はこの鬼が生まれるより幾らか前のこと。その頃には天狗も既に天狗で、勿論多くの同胞と共に問題に直面していたがどうにも〝これ〟と同種とも思えない。それだけ、問題を起こす鬼は常軌を逸していた。  だが、その上で小さいか大きいかも明らかにならない問題の中心に鬼がいることは穏やかではない。避けられるのならどんな些細なものでも避けておくべきなのは、きっと天狗でなくとも鬼に助言をしたことだろう。 「わかっているだろうけど鬼ってだけで君は誰より〝見られて〟いるわけだし、ここで本当に問題を起こしてしまうわけにはいかないだろう? 屋敷を出されたら、そのままこの土地も追い出される。そんな状況の中大事な子を連れてどう生きていくって言うんだい?」 「それは、そうだ」 「それに、これ以上鬼が問題を起こすのは我々の中でも、もう良くない。君だって、生まれる前のことだとしても里から出た〝悪鬼〟のことは知ってるだろう? 多分、もう鬼に残る〝次〟はないと思うよ。とても酷なことを言うけども」  雪が生まれる幾らか前、雪の父がまだ若く、そのまた父も生きていた頃に起きた大きな乱は今日までで鬼が起こした今のところの最後の、最大の問題であった。  あれには人も妖も関係がなかった。それだけ大きなものを越え、今ようやく全ての生き物が落ち着きを取り戻してこの状況。それでも鬼はまだ厄介の対象にかわりはない。特に、人にとっては何よりの。  他種族にとっても、なにより鬼にとってもやっとの落ち着きが素性の知れない生き物を発端に崩されるにはあまりにも不幸なこと。次こそ、鬼は本当に相応の処遇を求められてしまうかもしれない。その一端であるこの鬼がここにいる理由さえも、次には通りはしないだろう。 「素性がわからない生き物だからってだけじゃなく、君が曲がりなりにも鬼だってことがまあややこしくはあるね。曲がりなりにもってところが特に。何かが起きてからでも良くはないし、私でさえ何も知らない生き物なんだ、それが人に囲われていたってこともちょっと話し合わないといけないね」 「千乃か」 「そう、そらそうでしょう」  無表情の鬼が、少々項垂れる。表情こそ変化はないが、その大きな体が萎んだように背が丸まったのだ。これは〝嫌がり〟、表情もなく言葉も足りないこの鬼の、感情表現の一つだった。 「まあ、だから君はここでその子にえっちらおっちらしてなさい。君にここを離れてもらうわけにもいかないってのもあるけど、私が行った方が会話的にも詰まることなく進めるでしょう」 「頼む」 「ただ」 「ただ」 「私は別にここにいる条件として惚れてはならないなんてことは言ってはいないし、そんなことは好きにしたら良い。人と失敗したのは君ではないし、それに、君が伝えるべきは好いた惚れたの気持ちよりまず、その前の手順とも思うしね」 「……」 「わかるかい? わかんないだろうね? この百年そこらで君が恋したなんて初めてだってわかってる? 恋だってのはわかったんだね? 惚れた感覚はあったんだね、そんな本能はあったわけだね? でも頭でっかちに知識すらもないくせにいっちょまえに悩んでみてるけど、人との失敗談を知ってるだけでその前例でなにが問題だったかもわかっちゃいないだろう?」 「…………」 「つまりこうだろう? 生まれて初めて惚れてしまった子が人だと思ったから人で失敗した先駆者に助言をもらうのとその失敗を生んだこの場所に人の子を置いてもいいか伺わないとならないって思ったってことだろう? いいんじゃない? 別に好きにしたらいいんじゃない? でもそもそもまずここにいてくれるかどうかも承諾をもらってもないし、君の好きが伝わるかどうかもわかっちゃないけどね。そういう所だよ、君ら根っからの妖の傲慢な所は。ここまで真面目に受け答えしてあげてたわけだけど、なんにも始まってもいないんだけどね、わかる? 足りないね、あー足りない、全部足りないよ、君」 「…………」 「自惚れがすぎるよ、君。好いてしまったことにどうこう言う前にそれが叶うわけでもあるまい。それ以前にその子に好きになってもらえるように努力することが優先だろう。幾ら疎いとはいえどうなのかな、その発想。まずは好いてもらう為にも君が見た現実の為にもその子を守って大切に扱うことなんじゃないのかな、まず知ってもらうのと知ることじゃないのかな、というか好きならまずそこから始まらないかな、ああそうか、疎いんだったね」 「…………」 「どうだい、恥ずかしいだろう。疎いとはいえ先走って叶う前提で、さぞ自分の考えが恥ずかしいことだろう」 「……」 「そんな目で私を見たからといってなんなんだい。まあ、言葉も頭も少しばかり浮世離れにのんびりとした君に代わって私が助力してみよう。ここを出られても困るし」 「助かる」 「千之には話して来てあげるから、あっちから話を聞かせろとここに来た時には自分で話すんだよ」 「わかった」 「妙な感覚はあるし少々気にはなる。この山にも同胞にも秩序というものはあるからね。そんな不思議なものを誰もが知らないわけもないし、それが人の手にあったってことも気になる。その子の詳細については他の知恵も借りてみるとして、動けば厄介認定の君が出来ることは自分の恋心がその子に伝わるように頑張るくらいじゃない? それはそうと、単刀直入に、さて、聞ける相手なんだろうか」  肩から落ちた鈴懸とは裏腹に一本下駄で姿勢良く立ち上がった天狗は身を翻した。  床几台に向けた体は鬼ではなく別の方向へと向けられている。その先にはこちらへ向かう灰茶の耳と、未だ聞き慣れない少年の声だけが聞こえていた。
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