雨くんと狼くんと鬼くんと天狗くん

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雨くんと狼くんと鬼くんと天狗くん

「待て。では鬼様の名はどうなる」  雨の名づけた縁をひっさげ、彼はすぐさま部屋を出て庭へと進んだが花の中に埋もれる前に我に返ったようにびたりと立ち止まった。あまりに急激なことで背後を追いかけていた雨は縁の背中に勢いをせき止められ、止まり切れなかったオウとカミは一度花の中に消えてから草花を折らぬように後退りして戻った。 「はい?」 「俺の名は決まった、狼たちも。だが鬼様の名だけがまだだ」 「でも、それは私が勝手に決めてもよいのでしょうか?」 「俺の名は雨が決めたではないか」 「ええ、でも、あなたにはそれでもよいのかもしれませんが」 「縁だ」 「はい、縁。でも、あの方はここの主なのでしょう? 助けてもらった上、休ませてももらっているのに、そこまで図々しいことは出来ません」 「なにが図々しいのだ」 「ですから、お礼もなにも出来てもいないのにいきなりそんなこと」 「必要ないぞ、きっと」 「何故です」 「鬼様はそんなものを振りかざすような方ではない」 「それにしたって……」  雨は、昨日の鬼の言葉を思い出す。「嫌だと思えるまでは、ここに」、案ずる言葉はあっても「そのかわり」などという対価を求めるようなもののひとつも鬼の口からは出て来なかった。だが、だからと言ってそれに甘えきるというわけにもいかない。  「ここまで」は良くても「そこから」はなのかもしれない。欲のない生き物と過ごした試しのない雨にとっては「そんなわけがない」と腰が引けるばかりだった。  善くしてもらえたことには応えなければならない、それが雨にとってこれだけ大きなものでなかったとしても。  けれど、事実不便であった。その恩人に対しての呼び名がないというのは結局名を知らないままとなにも変わりはない。それもそれで非礼で無礼で、不義理である。だが、だが。 「でも、失礼にはなりませんか……」 「何故そんなことを思う」 「怒りませんか?」 「鬼様はそんなことでは怒らない。そもそも、鬼様は怒らない」 「怒らない?」 「少なくとも、俺たちは鬼様が怒っているのをそうそう見た事もない」 「……鬼が、怒らない?」 「鬼がというより、鬼様がだ」 「確かに、温厚な方のような気はしましたが」 「嫌だと言われたら引っ込めればいい。まずどうかと聞いて、その為に用意していればいい」 「そうかもしれませんが」 「不便なのだろう」 「はい」 「いるのだろう、ここに」 「それは……どうしたらいいのか……」 「いるのだとして、俺も鬼様も特に不便がなく名がない。名があることで不便になることも、正直にない。ならば、不便に思うお前の不便を取り除くのに嫌に思うものもない」 「案外、そういう考えなのですね……」  もっと、高圧的な考えのもとで他者と接する種族なのかと思っていた。人がなにも敵わぬだけ恐れる彼等の種族が、これ程穏便な判断をするとは考えてもみなかった。これでは、人の方が余程恐ろしい。雨に限っては、特にそう感じられてしまうだけ。  雨は、うんと短く唸り、考えた。時間にしても相当に短い自分の印象で上がるだけ、あの鬼に合いそうな言葉を思案した。  鬼、角、絢爛、豪華、良いにおい、静か、花、白い、金、穏やか、ゆっくり。ここまで並べただけで思い浮かべているものが鬼とは思えないようなものばかりになって、一旦雨の脳内は混乱しかけた。 「縁の中ではあの方の印象はなにがありますか?」 「鬼様」 「いえ、それ以外で」  首がゆっくりと傾いていく。縁がそうして考え込むと少し遅れて背後のオウとカミの頭も同じ方向に傾いた。  そんなに難しいことだろうか。けれど長く共にいれば確かに存在こそがその印象にもなるのかもしれない。彼には「鬼様」という存在でそれ以外にはない。では、難しいことを聞いた。一向に持ち上がらない傾いたままの縁の頭に、雨は少々罪悪感を感じ始めた。  考えて、考えて。何度も思い浮かべる雨の脳には何故か決まって同じ光景が浮かんでいく。最初に見た姿だ、花の中から立ち上がり、揺れる豪華な着物、あの姿ばかりが雨の脳には焼き付いているようだった。  そこから更に考える、その光景の中で、自分の目が一番に引かれたものはなんであろう――  そうして悩んで、悩んで、縁と共に「これ」というものを引っさげて鬼の元へと向かって来たのだが、雨も縁も一度その言葉を飲み込んでしまった。  鬼よりも先に自分達を迎えたのが天狗の顔であった所為だが、雨は彼が天狗であることも知らず、なにか、とにかく場を崩してしまったような気がして急激に感情が冷えてしまった様だった。 「狼くん、いま帰ったよ」 「天狗様、手入れですか」 「うん、それはもう終えたからね。鬼の近況を聞いていたんだよ」 「鬼様の」 「そう、鬼の。それはそうと狼くん、随分楽しそうに駆けて来たけど」 「はい、雨が」 「あ、わ、待って、待って下さい」 「そう、君の話も聞いていたよ」  あまりにも唐突に話題が進むせいで雨は堪らず縁の腕を掴み後ろに引くが縁の体はびくともしない。急に進められようとしたことにも、地面に生えたかのように動かない縁の頑丈さにも、割り込んで差し込まれた〝天狗〟という言葉にも雨の意識は散る火花のように忙しなかった。 「……私を?」 「そう、君は雨というのでしょう?」  鬼までとは行かず、けれど縁よりは随分と上にある彼の、天狗の笑みは柔らかい。けして鬼のようにしゃがみ込むことはなくとも屈められる背に雨の警戒も解けていくのがわかる。  雨に、人はこうはしない。けれど前日に鬼がした行動と同じだった。 「雨と申します。あの、つい先ほども〝薬〟を。その、とても効きました」 「そう、良かった。ああ大丈夫、私の薬はとても生き物に優しいものだから。人用かどうか不安もあったかもしれないけど、安心して」  天狗が言葉を続ける中、「話すのなら」とばかりに縁は自身の腕を掴む雨を天狗の前へと差し出した。丁度、床几台を挟んで天狗と雨が対峙する。その、雨の横には床几台に腰かける鬼がいる。それでもやはり雨の視線とほとんど変わらない位置に鬼の目があり、額の黒い角も雨へと向いていた。少しばかり身が竦む、怖いというよりは〝無礼ではないだろうか〟と不安になる〝まだよくわからない〟という部分でだった。 「私は天狗。多少聞いているのかもしれないけど時折この屋敷にいる者だよ。今後も会うことはあるだろうから、そうかしこまらないで」 「はい。いえ、え?」 「いるのでしょう? ここに。屋敷を持つ者としても異論はないよ。好きな部屋を使って好きな布団で寝るといい」 「いえ、いえ、でも」 「大丈夫、悪い者を決めるのだとしたら君を攫った鬼がなにより悪いのだし、咎めるものもなければ人もいないよ。そう、それより、なにを急いで駆けて来たのかな」 「はい、それより俺は縁です」 「うん? なに?」 「名がないのは雨が不便なので、雨が俺につけました。俺は縁です」 「ああ、なるほど。いいね、似合うんじゃないかな」 「あの、天狗様にお名前はないのですか?」 「私はもう随分と前に名は捨てたんだ。だから天狗で構わないよ。ねえ、雨、では鬼の名は?」  天狗の目が雨に向き、縁の目も雨へと向く。その流れに沿って、雨の目は鬼へと向き、そこで鬼の目と合う。  相変わらずに変わらない表情はそれを良し悪しする様も汲み取れない。だが、断る言葉もない。  三人が雨の言葉を待つ。順を待つ鬼はその美しい金の目で雨の言葉をじっと待つ。  痛い程に視線が集まり、刺さる。雨は次第に視線が地面へと埋まり、誰の目にも合わせていられなくなってしまった。 「その、雪、では。お姿や仕草の静かさが、とてもよく似合います」 「ゆき? 冬の雪かい?」 「はい、あの……」 「いいんじゃないかな、白いし」 「すみません、やはり違いますよね」 「いや、鬼の印象では最上級なんじゃないかな。私が付けるとしたら白の中でも泡かへちまか豆腐か湯葉かなんかだと思うしね。自立も頼りないような、それか風の通りが良くて」 「通り……」 「ねえ、良かったね鬼。雪か、良い名をもらったじゃないか」  促すように鬼へと振り向いた天狗の動作に縁と雨の目も共に鬼へと流れた。鬼の表情は変わらない。善しとも悪しとも変わらない。 「……」 「雪か」 「……はい、あの、嫌ではありませんか?」 「雪で良い」 「はい、では、雪様と」 「雪で良い。雨が決めたのなら、これからは雪と」  「良かったねえ」とのんびりとした声で言う天狗はもうほとんど肘まで落ちた左の鈴懸を肩へと直した。  彼の緩やかな言動と恩を返すよりも先に持ち込んだ名を嫌がらずに受けてもらえた安堵も相まって流れた和やかな空気で雨の体から緊張の強張りが消えていくのがわかった。まるで詰まった空気が抜けて、張った肌が和らぐように。  途端、縁がはっとした表情で雨に向かい「どちらも降るな」と興奮気味に言った。そこで初めて自分自身の名に擬えたようだと気が付いた雨も急激に照れくささが生まれて堪らず、「やはり」と別案を並べてみても遅かった。なにより天狗が茶化し始めるまでに間に合わなかった。  「そういうことなんだね?」と詰め寄る天狗はとにかく厄介で、つい先程まで雨を安心しきらせた善良さとは裏腹に厄介なものだった。  なんてことか、きっと延々と茶化され続けることだろう。雨がこの屋敷のいる限り、雪がその名で生きる限り、ずっと。
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