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「覚えていますか」
夢の中で手を伸ばす感覚のまま、文哉は彼の腕を掴んだ。大通りの青信号は静止した二人を他所に赤色に変わり、車が流れていく。青天の霹靂だと思っているのは文哉だけだ。そんな文哉の手を彼は怪訝そうに無言で振り払った。
「あっ、“リョータ”ですよね。リョータさん……」
振り向いた彼が驚いた顔をする。
「やっぱり!」
「……だったら何」
マスク越しの声が文哉の記憶を鮮明なものにした。
「あなたのファンです!」
「それはどうも。今後もご贔屓に」
「今後なんて無いじゃないですか」
「ファンなのにそういう事言う?」
「ファンだからですよ。引退したあなたの」
四年前、“リョータ”は突如として文哉の前に現れた。動画に挟まれた広告の中で彼が流し目をした瞬間に心を鷲掴みにされた。彼の姿しか記憶に無く、何の広告だったのか探すのに苦労したが新しい広告が流れた時は、その佇まいと眼差しがミステリアスなモデルだと人気が出た。自分と同じ十八歳だと知った時は驚いたのを覚えている。ぼんやりとした考えで大学に進学したばかりの当時の文哉は目の覚める思いを心に刻むように初めて趣味に没頭した。三年前、写真集発売記念のサイン会が抽選であり、文哉は女性ファンばかりの中で唯一の男性ファンというような会場であっても“リョータ”本人に会える喜びの方が勝っていた。彼は真実モデルであった。どこを探してもインタビューは無く、SNSもやらずに写真と映像の中にある存在感のみで息をしていたと錯覚させる程だった。
――二年前、彼は現れた時と同様に突如として引退を発表した。
「サイン会で会ったけど覚えてるかって?」
リョータの呆れた声が静かな店内で鋭く聞こえた。大通りから一本入った場所に最近オープンしたカフェはレトロな雰囲気で、リョータの風貌が合わさると異国情緒を感じられた。文哉の懇願にリョータが折れた形で話をする事になり、カウンターから一番離れた席で文哉とリョータはテーブルを挟んで向かい合う。夕暮れが迫る時間帯の店内に客は一組だけだった。海の中のような音楽が小さく流れている。
「まあ……」
「覚えてる訳ないだろ。何人来てたと思ってる」
「覚えておくって言ってくれたじゃないですか」
「リップサービスじゃねえの」
他人事のように言ってリョータはコーヒーカップに口を付けた。ただそれだけの事が絵になる。
「僕の人生の支えだったんですよ……」
「重い」
「はっ……プレッシャーが酷くて引退したとかいうアレですか……!」
「いや、売れなくなったから辞めただけ」
「人気あったじゃないですか」
「ファンが言う人気があると、事務所が言う売れてるは違うんだよ」
「……リョータさんは続けたかったんですか?」
リョータがぴたりと動きを止めて文哉を見つめた。文哉は目の前に居る憧れの人が夢を隔てた遠い存在ではなく、同じ人間である事を初めて意識したように思う。
「……選ぶ権利は無かったけどな」
肯定だった。
「そんなに売れてなかったんですか……」
「言いにくい事すげぇ訊くな。実は記者だったりする?」
「ただのファンです」
気持ちを整えるようにリョータはため息を吐いた。
「身の丈に合わないでかい仕事を一回やった所為で、小さい仕事が無くなったんだよ。ファンが居たのは有難いが、俺みたいなモデルはいくらでも替えが利く」
「僕の支えはリョータだけでした」
「……」
「あっ、重いですよね。すみません」
文哉が苦笑するとリョータが眉根を寄せた。
「俺を覚えてるファンがまだ居ると思うか?」
リョータの表情は自身を追いやった正体を見てやろうという意志の表れだった。
「僕以外にも……まあ居るとは思いますけど、ネットで話題になる事も無いですし……」
「だろ。失望しないのか、お前は」
「僕がリョータを好きな事とファンの人数は関係ないですよ」
「ファンが減ったから仕事も減った。……でかい仕事が来たのは本当に運が良かったからだけどな」
「もう一度……」
「やらねぇ」
撥ねつけるように言われて文哉は「ですよね」とだけ返した。望んでも望まなくても物事と時間が目の前を通り過ぎていく中で、自身の行動や気持ちが必ずしも尊重されるとは限らない。今この瞬間ですら運が良かったから起こった偶然にすぎないのだから。
「もういいか」
リョータが窓の外を見ながら言う。随分話し込んで文哉は満足していた。
「あっ、はい。ありがとうございました」座ったまま頭を下げる。「リョータが普通の人だって分かって良かったです」
「ファン卒業だな」
「いえ、ずっとファンですよ」
リョータの流し目が文哉を捉えた。心を掴んで離さない画面越しのミステリアスな眼差しとは違う、人間味のある瞳が瞬きを繰り返す。
「あなたのファンです!」
「何かお前、こわいな」
「何でですか」
「まあ、お前みたいなのが居るって分かって良かったよ」
リョータが立ち上がって先に行く。文哉も続いて、
「あの、会計は僕が」
「奢ってやるよ、フミヤ」
「そんな、悪いです……」
はっ、と気付いて文哉は息を呑んだ。その隙に会計を済ませたリョータがその様子を見て笑っている。
「な、名前……」
カフェのドアを押しながら振り向いたリョータは、文哉が見た事のない表情をしていた。
「覚えておくって言っただろ」
「忘れたって……」
「今思い出したんだよ。“フミヤと申します。あなたのファンです”ってサイン会で言ってた変な男居たわ」
「僕の人生に悔い無し」
「だから、重い」
誰にどう思われようとも、後にも先にも心を鷲掴みにするのは“リョータ”だけなのだろう。憧れが一瞬だけ近づいても文哉の思いは変わらなかった。いつかまた、運が良ければ巡り合うかも知れない。小さな希望を抱いてリョータに別れの挨拶をした文哉は彼の後ろ姿にスマホのカメラを向けた。文哉はあの時から趣味で写真を撮っているが、人物だけはどうしても撮る気が起きなかった。人生の支えは同時に枷でもある。歩き去るリョータが振り向いたならばシャッターを切る――振り向くな、と願いながら文哉は緊張した指でスマホを構えた。
掴み損ねた輝きは失われる事なく遠ざかっていった。
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