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3.悪役志願の男
バーの暗さに慣れた目に、LEDの蛍光灯は眩しすぎる。急に現実に引き上げられたようだ。
目の奥が痛む。我孫子は目頭を指で押さえた。
オフィスには関だけがぽつんと残っていた。しかしひとりだけ残業、という侘しさや悲壮感はない。
関はこちらに気づくと、いかにも人懐こそうな笑顔で片手を振る。
「タスケテー」
一度、終業して帰った人間を呼び戻したというのに、まるで悪びれたところがない。この図太さはある種の才能だなと感心してしまう。
百歩譲って友人ならともかく、安孫子は関と仕事以外の会話をした記憶がない。
関の背後から、肩越しにパソコンを覗き込む。
「今日は何をしたんですか」
「一晩寝かせたコードが動かなくなっちゃった。
っていうか、安孫子くんお酒の匂いする。しかも高いやつ」
我孫子のスーツに鼻を寄せ、犬のように嗅ぐ。
「これくらいなら問題ありません」
「デート?」
悪戯っぽい眼が探りを入れてくる。好奇心がむき出しになっている。
我孫子はまじまじと関を見返した。
一緒に働きだしてもう3年は経つが、未だに彼のノリについていけない。
緩くウェーブした茶髪に甘い顔立ち。仏頂面をしている我孫子とは対照的に、彼は何がそんなに楽しいのか、いつでもご機嫌だ。さぞかし女性にもてるだろう。
人懐っこさと軽薄さ、憎めなさを絶妙の按排で配合してできたのがこの男なのではないかと思う。
「早く共有ファイルに入れてくれませんか」。喉元まで出掛けたのだが、「誤魔化さないでよ」と返って火に油を注いでしまうかもしれない。
溜息が出る。
「片思いの相手とバーにいました」
「え、マジで?」
「雰囲気も悪くなかったので、ホテルに行けてたかもしれないですね」
それまでとっておきのスキャンダルを目撃した、と喜色満面だった関が急に真顔になった。
「俺、最悪じゃない?」
心底申し訳ないことをした、と顔に書いてある。声のトーンまで落ち切っているので、本気で悪いことをしたと思っているらしい。
そういう常識はあるのか。関の意外な一面に、安孫子は無表情を保ったまま驚いた。てっきり根ほり葉ほり聞いてくるかと思っていた。拍子抜けだ。
「すみません、嘘です。
相手はただの知り合いです」
「我孫子くんさあ~……。真顔で嘘は止めようよ」
関が背を椅子に預けて脱力する。今にも椅子からずり落ちてしまいそうな角度だ。
深い安堵の溜息を聞きながら、安孫子は関に覆いかぶさるようにして勝手にファイルのコピーし、移動させた。
オフィスの窓からは乱立するビルが覗えて、櫛の歯が欠けたように人口の光が灯っている。
早く関を帰してやらなくてはならなかった。
「その知り合いって、可愛い?」
さすがの我孫子も呆れた。
まだ話を引っ張る気らしい。
「関さん」
咎めると、関は菓子コーナーで愚図る子供になった。
「これだけ聞いたら仕事に戻るからさ。さっきまで俺、ずっとコード読んでたんだよ? ちょっとくらい気分転換したいじゃん」
ねえねえ、とご褒美をねだってくる。
関は我孫子とそう歳が変わらない筈だが、どうして職場の同僚に対して無邪気な態度がとれるのか困惑した。仕事ができない奴とレッテルを貼られるのが恐くないのだろうか。
分かっているのは、さっさとこの無駄話を終わらせてしまった方が、結果的に良いということだけだ。
「可愛いと思いますよ。可愛い男性」
できるだけ感情が乗らないよう、無機質に答えた。
そして、この期に及んでまだ雨杜のことを可愛いと言ってしまう自分に眉根が寄る。
抱けるわけでもないのに。
雨杜は日向に想いを寄せている。だから少しでも日向と会える機会が増えるよう、あの店に連れて行ったのだ。反応は鈍かったので成功したとは言えないだろうが。
「今度、紹介してよ」
聞いていたか? という視線を送ると、関は歯を見せて笑う。愛嬌のある八重歯が覗いた。
「おれ、男も女も大好き。博愛主義者なんだよね」
同性婚が施行されて結構な年月が経った。誰が誰を好きになってもいい。
しかし。
他人を上っ面で評価したくはない。頭では分かっている。収入とか良い家庭人になりそうだとか。分かってはいるのだが、目の前の男はどうにも頼りがいに欠けている。
「あなたじゃ駄目ですね」
「我孫子くん、その子のお父さん?」
関が唇を尖らせる。
案外、核心を突いた答えだった。
知り合いというにはもっと踏み込んでいたくて、もう誰にも頼る相手がいなくなったとき、無条件に守ってやって当然で。それでいて身体の関係を絶対に持つことがない。
そういう距離感を落とし込んだら、お父さんになるのかもしれない。
「……悪くないですね。検討しておきます」
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