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日向が椅子の上で、ぐいと背伸びをした。
時刻はいつもの通り遅い時分だ。彼の部下は早々に帰ってしまっている。別のフロアにも一人か二人が残っているくらいだろう。
「ああ、疲れた」
椅子を軋ませながら、日向が珍しく大きく吐息をつく。いつでも「いいよ、いいよ」で済ませる彼にはしては珍しい。
我孫子はキーボードを叩く手を止めた。最終チェックのために入力した変数が正確な値を返してくる。今のところ順調に進んでいる。今日のうちに導入を終わらせて、後は予期しないエラーに対するサポートに回ればいいところまで来ていた。
逆を言えば、呼ばれるまではここに来る理由がなくなってしまう。
そんな焦りが我孫子の口を開かせた。
「何か、ありましたか」
言ってしまってから、眉間の皺が深くなる。もっと上手い切り出し方があった筈だ。
案の定、日向が目を丸くしてこちらを見た。
「何かって?」
「……いえ。なんとなく」
つい言葉尻が弱くなった。
気まずさを誤魔化すためにチェックを再開する素振りで顔を伏せる。
幸い、デスクには仕様書やらマニュアルやらが山と積まれている。身を隠すには困らない。
雨杜とのカラオケボックスでのやり取りから数日が経っていた。あれから彼とは顔を合わせていない。
「ほんとうに?」
日向はからかうように尋ねてくる。完全に集中力が切れたらしい。デスクの引き出しから目薬を取り出して点すと、目頭を揉む。一連のしぐさに年齢が滲みでいていた。
僕はこれからリラックスするから、君も遠慮しないでね。そういう態度を、日向は出し惜しみしない人だ。風通しの良い職場になる筈だった。
我孫子は日向の横顔を盗み見ながら、迷っていた。
この二、三日の間に雨杜がここに来たか聞きたかったのだ。来たのであれば、彼の様子を知りたかった。知ってどうするのかと我ながら思わないでもなかったが、今さら手を引ける気がしない。
「何かあったのは、安孫子くんじゃない?
君の私生活、謎だもんね」
我孫子の目には、雨杜の分別の無さはあまりにも不安定だ。だが、目を変えてみれば我孫子も日向には同類に見えるらしい。
キーボードの上の指が引き攣る。
「……、」
脳が胃液の酸い味を呼び起こした。あれからずっと明け方にくる吐き気に悩まされている。本来、上から下に流れていくものが逆流するのだから、体力が削られてしまう。
今のところ誰にも気付かれていないのだけが幸いだったのに、と眉間の皺を深くする。
どうでもいい人間からの心配や気遣いは不愉快だった。どうでも良くない人間からのそれは、纏う嘘を厚くしなければならないだけ、辛くなる。
「謎なんて大げさなものじゃないですよ。ただ仕事しかないだけで」
可愛げの失せた返答に、日向はこちらに人差し指を向けた。
「そう、それ。
君は何かあると仕事にのめり込む節があるからなあ。誰かに都合良く利用されないように、気を付けるんだよ。
まあ、僕のことなんだけどね」
「日向さんなら大歓迎ですよ。営業の安請け合いを間に受けないし、技術屋の理屈も理解してくれる。どこのとは言いませんがこの前の商談なんか酷くて、つくづくあなたが恋しかったですから」
「引き抜き希望って思っていいのかな。我孫子くんが来てくれるなら、喫煙ルームにデスク置いちゃうんだけどね」
「それ良いですね」
日向が控えめな笑い声をあげたので、それに倣う。
四年前から安孫子はあまり笑わなくなったので、たまに日向と雑談を交わすとき、自分の笑顔がぎこちなくなっていないか気になることがある。
同時に、怒ることもなくなった。雨杜を怒鳴りつけたのだって、何年ぶりかのことだった筈だ。
うつ病患者が気分が沈まないように抗うつ剤を飲むように、安孫子もなるべく感情を平坦に保つようしてきた。楽しいことがない代わりに、泣きたくなることもない。
そうやって、啜るような粥を食って生きていたのに、いきなり欲望をむき出しにした感情を押し込まれたのだから、胃だって驚きもするだろう。
そのうち慣れて、忘れて、また限界まで薄めた感情を常食するようになる。
「あの、」
控えめな呼びかけを聞き逃すことなく、日向は「なぁに?」と柔らかく返してきた。
日向は懐に入れた人間には、えらく甘い。信頼してくれているにしても、彼の態度を標準と捉えては拙いと自重しなくてはならないほどだ。
「最近、雨杜さんと会われましたか」
なんでもない世間話を装って聞いてみた。
「雨杜くん?」
我孫子の心中を知らないでか、日向は椅子の上で小首を捻った。短い灰色の髪が椅子の首当ての部分に散らばる。
「昨日、猫やのプリンを差し入れして貰ったね。刺したスプーンが立つくらいの、固いやつ。おいしかった。
……けど、これは僕も悪いんだけどね、彼、毎回、自腹を切ってるみたいでさ。井澄さんとこの子だから、そんな筈ないと思ってたんだけど。良くないよねえ」
日向はさらに小首を捻り、唇をむにゃむにゃさせて考え込む。それから、柔らかく組んでいた両腕にぎゅっと力を入れた。
「で? 雨杜くんが、どうかした?」
「……途中、見かけたので、こちらに寄られたのかと」
安い嘘だった。どこで、と重ねて問われたらバレてしまうくらいの。我孫子は移動に電車を使うが、雨杜は営業車なのだ。
けれど、日向は「そう」と頷くだけだった。
嘘をでっち上げながら思い返してみれば、単純な話だった。
多分、きっと、雨杜は日向が好きなのだ。我孫子が雨杜と出会った時にはすでに。でなければ、タイムカードを押せない時間になっても、彼の好みのものを差し入れするために女性ばかりの列に並んだりしない。
「……」
嫉妬に似たものが、一滴、心に落ちた。
「さて、作業再開しようか。たくさん褒めてもらった以上、終電に乗せるわけにもいかないからね」
促されて、安孫子はパソコンの画面と向き直る。
溶けて広がってしまう前に、嫉妬に似たものを無かったことにする。嫉妬なんてものは、それを持つに相応しい人間の持ち物だからだ。
四年前の八月半ばのことだ。安孫子は車に撥ねられて、男としての機能を失った。同性婚が当たり前となった今となっては、賃金格差もほぼ無くなって、経済力も大した武器にはならない。
『抱いてもらえないのに、どうやって愛情を確認すれば良いんですか』
浮気した婚約者の言い分は真っ当で、──以来、安孫子は誰とも向き合えなくなった。
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