2.オム・ファタル

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 世の中、痛みのない人間はいない。自分ばかりが大怪我をしていると喚き散らす真似をしてはいけない。自分の悲劇だけを見つめて嘆いてはいけない。  日向は自らをそう戒めてこの数年を生きてきた。  四年前の夏のことだ。  大事に育てていた部下がミスをした。日向はフォローの為に得意先に頭を下げ、対応策を提案させて貰い、また頭を頭を下げるのを繰り返していた。  それを何度も繰り返すうち、目眩がしてきた。妙な焦燥感に襲われた。営業車の運転席には陽が射していている。車内は砂漠のようだったし、サウナのようでもあった。熱気が渦巻いてシャツが肌に貼りつくのに、舌はからからに乾いている。  いつ水分を摂ったか思い出せない。茶を出されたような気もするが、謝るしかない身では手を出すのも憚られたのだ。  いよいよハンドルを握る手も危うくなってきた。  脱水症状なんてつまらないもので担ぎ込まれたら、それこそ方々に迷惑がかかる。  大通りを行けばコンビニがいくらもあるだろうに、近道に裏通りを選んだせいで、辺りは民家しか見当たらない。  そのうち額から瞼に汗が流れてきたので、瞬きを繰り返した。  と、数十メートル先に自販機が現れた。  日向は軽く目眩をおこしながらも、慎重に車を脇に寄せ、電動の唸りをあげる自販機に縋りつく。  けれど不運は続いた。  ペットボトルの水を買おうとするが、小銭を入れる場所が見当たらない。ただでさえ意識が低下し、視野が狭まっているのだ。日向は余計に焦り、自販機が最新式でスマホ決済のみであるのに気がつくまで、ばかみたいな時間を要した。  ようやく転がり落ちたペットボトルに手を伸ばした瞬間。  耳をつんざく複数の笑い声が、日向の脇を通って行った。朦朧とする意識の隅っこで、壁に落書きされたカラースプレーみたいな賑わいだと思った。  日向の脇を通り抜け、大通りへ向かう左に曲がったのは、彼がロックし忘れた営業車だった。刺したままの鍵を回したのは、長すぎる夏休みを持て余していた中学生たちだった。  日向は唖然と営業車の尻を見送った。  傍から見れば滑稽の一言だった。  で、当然の帰結として、彼らは人を撥ねた。  誰もが日向に同情してくれた。迷惑を被った筈の得意先ですら、君のせいじゃないと言ってくれた。部下は去ってしまい、全てがうやむやになってしまった。  呆然と日々が過ぎていくうち、唐突に日向の罪が鮮明になった。  新聞で知った名前と同じ文字が、差し出された名刺に印刷されていた。  我孫子健一。  左遷された子会社でのことだった。  あれから二年と三か月、十三日が経っていた。  今どき珍しく古風な名前だった。  きっと長男なのだろう。  あれだけの大事故で身体に障害が残らない筈がない。  健一と名付けた親の想いが辛くて、ビルの屋上から身を投げてしまいたかった。 「誰かに都合良く利用されないように、気を付けるんだよ」  どの口が、と日向は内心自嘲する。  我孫子にはできる限りのことをしたかった。しなくてはいけなかった。  けれど日向の手の届く範囲はあまりにも狭くて歯がゆい。
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