2.オム・ファタル

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 我孫子に案内されたバーは、大きなビルの合間に身を縮めるようにしてあった。通りすがるだけでは見逃してしまうような規模の店だ。  おまけに、半地下の階段をたった二歩降りただけで一気に視界が狭まって暗くなる。  心もとないまま降り切ると、今度は木製の扉が待ち構えていた。  ドアハンドルを押せば開くのだろうが、堅牢な造りや格式高そうな木目の艶のせいで一見の客を拒んでいるように見える。  少なくとも雨杜ひとりだったら諦めて、もっとオープンな店を探すだろう。  その扉を、我孫子は実家に帰ってきた素振りで開け、遠慮なしに入っていく。  ──暗い店だった。  ダークオレンジの間接照明。それから十人座れるだろうかというカウンターを照らすスポットライトが三つ。  常連のためだけにあるような、小さな店だった。  まだ一人も客がなく、静かなジャズが良く通る。 「いらっしゃいませ」  アイスピックを使っていた初老のマスターが、まず我孫子に向かって言い、それから雨杜を見て笑顔で会釈をする。  シャツにベストといういで立ちだ。作業中だったためかシャツの袖を巻くっているが、それでも充分な紳士の佇まいがある。  雨杜はこういった本格的なバーに来たことがないので、気圧されてしまった。  学生の頃、合コンの人数合わせに連れていかれたイタリアンやカジュアルバーとは客層が違う。そもそも、雨杜自身がターゲット層として設定されているかどうか。  あたまの悪い表現をするなら、大人の店だった。 「早いうちにすみません」 「開店時間ですから。ご自由にどうぞ」  我孫子と雨杜が席に着く前に、灰皿が出てきた。やはり常連なのだろう。  日向もたまに来ると言っていた。日向の性格からして接待ということはないだろう。  つまり、ふたりはこういう場所で気兼ねなく共に酒を傾ける仲なのだ。  我孫子が日向のところに出入りしているのを見てから、信頼関係の深さを実感せざるを得なかった。  時間をかけて築き上げた者同士の阿吽の呼吸や、身内ならではの慣れ合い。それを本人たちがどれだけ認識しているかは分からないけれど。  羨ましく、ともすれば妬ましかった。  彼らは、エンジニアとクライアントという立場を差し引いても、雨杜の知らない言語や理屈で相互理解を深めているように見えた。  けれど、我孫子を好きになりかけてはいるものの、一方で日向を嫌いになったわけではないから、沸き上がった嫉妬は、雨杜にはどちらとも判別がつかない。  手足を左右バラバラに引っ張られているようなものだ。 「雨杜さん、食事まだですよね?」  だし抜けに声をかけられた。慌てて首を縦に振る。  それを受けて、マスターが笑みを作った。 「フードメニューです、どうぞ」 「あ、ありがとうございます」  雨杜は差し出されたメニューを開いた。写真は載っていないが、丁寧な説明が記されている。  てっきりこういう店は、酒かちょっとしたおつまみしか出ないものと思っていたが、意外とボリュームのあるメニューが充実している。  上から下まで一通り見て、雨杜はアルコールの項目がないのに気が付いた。  改めて正面を向いてみれば、マスターの背後、壁一面に酒瓶が何十と並んでいる。  この中から指定しないといけないのだろうか? 当然、スーパーやコンビニで見かけるラベルはひとつもない。  雨杜は焦り、助け船を求めて隣を見る。 「決まりました?」  場慣れしていない雨杜とは対照的に、安孫子はバーカウンターに頬杖をついていた。おまけに、さっき駅の喫煙所で立て続けに五本も吸ったのに、もう煙草を咥えている。  なんだか、しどけない様子だった。  雨杜が今まで目にしてきた我孫子とは違う、ピンと張りつめていた糸が緩んでいる。  男の色気を漏らす、隙のような、口が緩く開いているようだった。  緩い状態の我孫子に奮われて、思い切って耳元へ口を寄せる。  塞がったピアスホールの跡が見て取れた。  意外だった。ピアスを開けるような人だったのかという感想はもちろん、埋まった肉が作る、ぷっくりした高低差の弾力を思った。  安孫子は指先に煙草を挟んだまま、身体を、埋まったピアスの跡が残る耳元を雨杜の方へ傾けてくる。  子供の耳打ちに応対する親の仕草そのものだった。  対して、煙草や酒、安孫子自身の体臭がぐっと身近に迫り、肩と肩が触れたことに、雨杜は動揺をした。 「あの、」 「うん」  鼻に掛かった妙に甘やかな返事が、雨杜の背筋を泡立たせる。  気恥ずかしい。  頬に血の気が上る。  好きな人の前ではなるべくスマートでありたいのに、経験不足が否めない。 「お酒って、どう頼めばいいんですか」  ようやっと、それだけを言った。    密やかな疑問は、マスターがアイスピックで氷を削る音に紛れた。  ……本当は、もっと別のことを言いたかった。  高ぶる雨杜の心境も知らず、安孫子は口を開いた。自分がどんな目で見られているか、まるで無頓着な様子だ。   「ビール平気ですか? じゃあ、弱めのカクテルとか、ノンアルもあったはず、」 「あ、我孫子さんは、いつも何を飲まれるんですか」 「ハイボール……?」  低く掠れた声が雨杜の耳に注ぎ込まれる。 「嘘だぁ」  安孫子の、こちらを避けた視線や弱くなった言葉尻に、雨杜はついタメ口が出てしまった。  指摘された我孫子は気まずそうに眉根を寄せている。けれど、本気で気分を害したというわけでもなさそうだった。  今夜の彼は、今までのイメージを覆すくらい隙がある。 「……まあ、一杯目くらいは付き合いますから」  いつの間にか、かき上げた筈の前髪が額に落ちていた。普段は後ろに撫でつけているから意識しないが、思いのほか長い。  顔に掛かる髪は影を作る。  影は、いやらしいものだ。  事実、今の我孫子は、姿としては喫煙所とそう変わらないのに、妙に気だるく映る。  店内に満ちたアルコールや煙草の匂い、間接照明がそう見せているのかもしれなかった。  まだお互いに一滴もアルコールを入れていない。  酊したらどうなるのだろう。  脈が速くなる。  そもそも、自分のテリトリーに呼び込んだ雄の意図など、明白ではないだろうか。  ホテルに誘われるかもしれない。  雨杜は期待に身震いした。
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