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性欲と食欲を両立することは難しい。一方の飢えを満たしながら、もう一方に渇望するのは至難の技だからだ。
少なくとも雨杜の妄想に、誰かの腕に抱かれながら激辛カレーを食べたいなんていうファンタジーは存在しない。
だから店を出た後のことばかり気にかかって、オーダーしておきながら、それには気もそぞろだった。
けれど、目の前に出されたクラブハウスサンドは想像していたより、ずっと手が込んでいた。何より、香りが複雑で豊かだった。思わず唾液が溢れてきてしまう。
一緒に出されたグラスに手を伸ばすのを忘れて食べきってしまった。
それまで我孫子の一挙一動が気になっていたのに、自分はよほど見境なく目の前の欲望に飛びついてしまうらしい。
なんというはしたなさだろう。
「いやあ、食べっぷりが良いですねえ。作った甲斐があります」
マスターが嬉しそうに相好を崩したのだけが慰めだった。
「自家製の燻製って初めてで、すごく美味しかったです」
些かの後ろめたさを引きずりながら微笑み、雨杜はようやくグラスに手をつけた。炭酸は僅かばかり抜けてしまっている。それでも時折、炭酸が跳ねた飛沫がグラスを持つ手にかかった。
「褒めて頂いたお礼です。
我孫子さんもどうぞ」
小皿に数種類のナッツが盛られている。普通のナッツより茶色がかっている。これも燻製してあるようだ。
雨杜は好奇心からすぐに手を伸ばす。
対して、安孫子はあまり食指が動かない様子だ。彼はひたすら酒を飲みたいタイプのようだった。今も、とっくに一杯目のハイボールを飲み干してロックグラスを手の中で転がしている。
酒をさほど必要としない雨杜でも、すきっ腹にアルコールを入れるのが拙いのくらい知っている。煙草の量といい、分別を弁えた大人に見えていたけれど、プライベートでは案外だらしなかったりするんだろうか。
BGMが甘かな女性シンガーのジャズに切り替わった。
マスターが少し離れた場所でグラスを磨く音がする。
お互いに無言のまま、我孫子と視線が合った。
いやな沈黙ではない。
彼はロックグラスを舐めがてら、少しだけ目尻を下げた。黒々した瞳には雨杜が映っている。
普通なら「ここ、美味しいでしょう」とか「気に入った?」とかリアクションを求めるものなのに、安孫子はそれをしない。ただ、雨杜の反応を見守っている。
我孫子が饒舌だった印象はないが、酒が入ると一層無口になるのだと知った。
そうか。
雨杜は急速に実感した。今、安孫子のプライベートに触れているのだ。彼を形作るボディラインをなぞるように。
言いようのない情動に駆られた。
どうしてこのタイミングで、と思われるだろう。雨杜だってそう思う。
だが、この瞬間、区切りを付けてしまいたかったのだ。
雨杜はグラスを煽った。たまに口にする安い酒とは違い、華やかな香りがした。一気飲みする酒じゃないなと一抹の後悔があって、次いで胃が熱を帯び、燃料を与えられた気がした。
「我孫子さん」
身体の向きを変えた雨杜に、何事かと我孫子まで姿勢を正す。
酒と煙草からも手を離したところに、どこまでも誠実な人柄が現れている。
「ずっと言わなきゃって思ってたんです。
──止めてくれて、ありがとうございました」
カラン、とカウンターに置かれたグラスの中で氷が音を発てる。
雨杜は真っ直ぐに我孫子を見据えた。頭を下げるべきなのだろうが、安孫子の瞳を見つめていたかった。
「あ、」
我孫子は雨杜から目を離さないまま、右手で灰皿の煙草を探った。指先が煙草を摘まみ上げたが、吸いさしであるのを察したらしい。そのまま吸いさしで灰皿の底を叩く。
そうやって時間をかけて、ようやく彼は綻ぶように微笑んだ。衒いや外連のどちらにも偏らない、屈託のない笑みだった。
「正直、余計なお世話なんじゃないかって、ずっと心配だったんです。
安心しました」
切れ長の目の淵にある琥珀色の潤みが光った。アルコールのせいかもしれないが、雨杜は自分のためだと自惚れたかった。
なによりいつも我孫子の眉間に刻まれている皺が解れている。
彼のこんな顔を、一体何人が見ただろう。
自分が特別に想われている、と勘違いしてしまう。いつかの幸福感が記憶から舞い戻ってくる。
「おと、」
勝手に唇が動いた。
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