2.オム・ファタル

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 雨杜の余韻を裂くように、スマホが鳴った。  我孫子がこちらに手で断りを入れてから、通話に出る。 「関さん、どうされました」  答えながら、彼はそのまま店から出て行ってしまった。仕事の話らしい。かなり飲んだはずなのに、後ろ姿が颯爽としている。  夢から醒めたようだった。  置いて行かれた雨杜は下を向くしかない。項垂れたわけではない。今の自分の顔を誰にも見られたくなかったからだ。  真夜中にやらかしてしまった過去を思い出し、ベッドで暴れたくなる類の、羞恥心。  頬が熱を帯びる一方、頭は急激に冷えていく。  勢いに乗ってしかできない事というのはある。だがそれはあくまでも手綱を握っていることが大前提だ。最後に言いかけたのは、確実に手が離れていた。  勢いが削がれてしまったときなど、余計に悪い。  スマホが鳴ってくれて助かった。  マイナスから入った評価がやっとゼロになったのだ。慎重に距離を縮めていきたい。 「雨杜さん、」 「は、はいっ」  改めて決意を固めているところを、急に声を掛けられたので背が跳ね上がっ てしまう。 「すみません。トラブルがあったようなので、社に戻らないといけなくなりました」 「……そうですか」  なんとなく察しはついていたものの、いざ告げられるとやはり落ち込むし、我孫子の塞がったピアスホールにも未練が残る。仮にホテルに誘われたとして、それが適切な距離の縮め方なのかは分からないが。  元はと言えば雨杜に非があって誘ったのだから、引き留めることもできなかった。 「ゆっくりして行ってください。日向さんがいつも頼んでらっしゃるパフェも美味しいらしいので」  言いながら我孫子はグラスに残っていた酒をくっ、と飲み干した。慌ただしく帰り支度をし、マスターに目配せをする。  それが支払いに関するものだと思い当たった時には、ドアが閉まったことを知らせるカウベルが鳴り止もうかというころだった。  雨杜は阿呆のようにその背を見届けた状態のまま、酒を煽った時の、スポットライトに照らされた喉仏が上下する様、その張り出した際が白く照らし出された様を反芻していた。  喉仏の男性的な力強さにときめきもしたし、名状し難い何かもあった。  ようやく正気に返って、 「……あの、私がまとめて払いますので」  首を窄めながら、恐る恐るマスターに声を掛ける。  そもそも、そういう話で我孫子を誘ったのだ。 「それでは任された私が、お客様にお叱りを受けてしまいますねえ」 「自分の分だけでも」  困った顔を作って妥協を願い出るが、返ってくるのは無言の笑顔だけだ。無理に金を押し付けられそうもない。  雨杜は仕方なくナッツに手を伸ばした。何かを噛み締めなければ収まりがつかない。今度こそ奢らせてくださいと言える名目を得た、と前向きに考えるよりない。 「我孫子さんって、いつもあんな感じですか」  上目遣いが、つい妬ましいものになってしまう。 「あんなとは?」 「仕事が趣味、みたいな」 「さあ。あまりお話されませんので。  単純に、ひとりで飲みたいとき、お越し頂いてるだけかもしれませんが」  マスターの顔には、これ以上の情報開示はできないと書いてある。  雨杜は探りをいれるのを諦めた。突っ込んだところで、煙に巻かれてしまうだろう。  仕事が趣味だと困るなあ、と炭酸で舌を湿らせつつ思う。  我孫子の仕事は傍目にも専門性が高そうだ。特に文系の雨杜には分が悪い。もっとも、それらを習得しないうちは、日向に嫉妬する権利もなさそうなのだけれど。  雨杜は好きになった相手の趣味を真似しないではいられない性質だった。単純に会話の幅が増えるし、熱心に話をする相手の顔を見るのが好きなのだ。  好きなものを語るとき、誰もが弾けるような笑顔になる。  だから、エキチカでスイーツの行列が出来ていれば並んでしまうし、美術館でロマン派の展覧会があれば足を運んでしまう。  煙草のように、習慣にまでなってしまったものさえあるのだ。  おかげで、数少ない友人に趣味が一貫していないと揶揄される有様だ。  それでも止められない。  好きなものを共有したいのだ。 「我孫子さんがいつも頼むお酒、飲んでみたいんですけど、お願いできますか」 「ボウモアをストレートになりますが。  ん、……では、味見程度にしておきますか」  マスターは首を捻った。パフェが出るものと思っていたのだろう。我孫子が帰りばな口にしていたからというより、雨杜の見た目による先入観が強いのかもしれない。  口を広げるようにして括れた、脚のあるグラスが出てきた。隣のタンブラーは水のようだ。  雨杜は小振りのグラスに鼻先を近づけ、 「っ!」  息を飲んだ。それだけでは足りず、顔を背けてしまった。  マスターが手の甲で口元を抑えつつ、くつくつと抑えきれない笑いを零している。何も知らない若者がうまく釣れたと言わんばかりだ。  カウンターを挟んで恨みがましい視線を向けずにおれない。  どうしてこんなもの、わざわざお金を出して飲むんだろう。  それぐらい強烈な消毒液の臭いだった。  液体を口に含んでみても、ぐらぐらと脳が揺れるだけだ。美味しいと思えない。  でも、絶対に好きになってみせようとも思った。  良いところを見つけて、そこに惚れ込むのは雨杜の得意なのだ。
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