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1.優しい恋の終わり
薄い唇が戦慄いた。はっ、はっ、と犬のようなテンポの呼吸がそこから漏れ出している。
「いくら出せばいいんですか……」
まるで刑期を確認する調子だ。我孫子は深く息を吐いた。頭が痛い。
「お金の問題じゃないんですよ」
我ながら、目の前の男を強請っているようなセリフだ。だが、他に適切な言葉が思いつかなかった。
適当に連れ込んだカラオケボックスの個室に、重苦しい沈黙が横たわる。
右隣の部屋から女性客の歌声が聞こえてくる。女子会なのか、なんとも華やかな賑わいだ。羨ましくなる。
こんな状況でなければ、二人きりになれたことを素直に喜べただろう。我孫子はこめかみを揉んだ。
向かい合わせのソファで縮こまっていた男、雨杜が口を開く。
「……今から、ATMを回れば、二百万は、」
提示された金額に、我孫子は仰け反った。雨杜くらいの男には殆ど全財産に近い。
「だからっ、金が目当てじゃないって言ってますよね!」
我孫子の怒鳴り声に、雨杜がびくっと肩を震わせる。全体的にひょろりと薄い印象の雨杜が怯えているのを見ると酷いことをしているような気になってくる。
何度目かの溜息を吐き出し、我孫子はどうにか冷静になろうと努めた。こめかみを揉み、目頭を揉む。
「とにかく、こういうことは金輪際、止めてください。それさえ約束して下さったらお金はいりません」
デンモクの隣に置かれたA4サイズの封筒を、雨杜の側に押しやる。
「私も口外しないと誓います」
仮にも片思いの相手だ。我孫子はできる限りの誠意を込めた。
今まで俯いていた雨杜が、ようやく顔を上げた。真っ直ぐに我孫子を見つめてくる。
いつもは清潔に整えている黒髪が、はらと乱れている。瞳が涙で揺らめいている。一目で我孫子の心を捕らえた時と変わらない。瞳自体は黒いのに、ダイヤのように七色の光彩を宿している。顎を掬い上げてあらゆる角度から眺めまわしたくなる。
雨杜は両膝の上でぎゅっと拳を握った。
何かを吹っ切った雰囲気だった。我孫子は安堵しかけた。
が、裏切られた。
「できません」
並々ならぬ情感が籠っていた。拾った捨て猫を、再び捨てるために取り上げられる子供の顔をしている。一滴の涙が固く握った拳に落ちた。
「申し訳ありません。お約束できません」
甲高い、叫び声に似た女の声が、壁一枚を隔てて上がった。
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