3.悪役志願の男

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 話は、一日前に遡る。  喫煙ルームのドアを開ける音に、安孫子は伏せていた眼を面倒くさそうに持ち上げた。実際、疲れていた。普段の働きぶりが認められて、これまでになく大きい仕事を任せられている。  ドアを開けたのは関だった。いつものようにご機嫌な様子だ。 「や、お疲れさま」  ドアの上辺に両手を掛けている。まるで逃げ場を塞ぐような姿勢だ。逆光になっているせいか、嫌な予感を抱かせる姿だった。  そもそも関は非喫煙者だ。気管支炎が弱いらしい。そんな彼が、密談をするのに打ってつけの時間帯、閉じた空間に割り込んできた。  不安と警戒心が沸き上がる。我孫子は火を点けたばかりの煙草を揉み消した。  にぃ。と関が口角を持ち上げる。 「今日のノルマは終えた筈ですよね」 「タイムカード押してあるから大丈夫」  早く帰れ、というニュアンスを含んだ確認は、一蹴されてしまった。今までなら「分かってますよー」と軽く応じた筈だ。この前、下手に雑談を交わしたのがまずかったのだろうか。  酒のせいで口が軽くなってしまった自覚がある。 「今日、挨拶回り行ってきたんだあ。我孫子くんがしくじるなって念押ししたとこ」  関はスマホを弄りながら言った。いつの間にか、入り口から我孫子の隣に移動していた。  日向のところだ。  本当は担当替えなどしたくなかったのだが、スケジュールや人員のことを考えると、関に任せるよりなかった。彼はあまり真面目とは言えないが、そつなく柔軟な対応ができる。 「さっそく、何かやらかしたんですか?」 「ちがう、ちがう」  咎める安孫子の目の前に、関の両の手のひらを振って見せる。やけに長く節くれた十本の指が踊った。 「良い感じの子と知り合ったっていう、自慢?  こないだ、安孫子くんに紹介断られちゃったからさー。やり返してやりたくなるじゃん」  頼みもしないのに、スマホのLINE画面をこちらに向けてくる。  愉快げと言うか、おちょくるようにと言うか、左右に振られる画面のIDは、雨杜のものだった。  一瞬、動揺した。  どうしてこの二人が、と思った。  万が一、鉢合わせたところで自販機の営業とシステム屋だ。連絡先を交換し合う理由がない。 「あれ? ……知り合いだった?」  関も予想外だったのだろう。小首を傾げている。  我孫子は奥歯を噛み締めた。  感情を顔に出さないのは得意だが、関はそれ以上に表情を読み取る能力があるらしい。 「もしかして、この前言ってた<可愛い男性>だったりする?」  おまけに勘まで鋭い。  関は面白いおもちゃを見つけたとばかりに、覗き込んできた。  ──どう言い躱すべきだろうか。  否定するにはもう遅い。  現に、関は確信を握った顔で返答を待っている。 「……そうです」 「マジで。もうちょっと粘ろうよ」  思いのほか早いギブアップに、関はスマホをジャケットの内ポケットにしまった。  けらけらと笑い声こそ上げはしたが、明らかに興を削がれた仕草だった。 「…………」 「…………」  どう出るか思案する者と、どう出られるか警戒する者。  ひりつくような沈黙が横たわった。  我孫子の手が、よほど煙草に伸びかけたときだった。  それまで喫煙ルームの隅を見ていた関が、不意に我孫子の顔に視線を合わせた。日本人にしては明るい茶色の眼は、長いまつ毛が落とす影のせいか普段より暗く見える。  形の良い唇が大きく開いた。 「」  新しい遊びを思いついたふぜいで、関が明るい声音で呼ぶ。  嫌な予感が、いよいよ実態を持って目の前に迫ってきた。我孫子は頬を引き攣らせた。 「大事な息子さんに悪い男を近寄らせたくなかったら、おれと遊んでよ」 「……は、」  我孫子は信じがたいものを見る目で、関を見返す。  彼は本気のような、冗談の延長のような顔をしていた。 「おれさー、メンヘラの子って好きなんだよねー。  夜中にいきなり、今すぐ会いに来てくれなきゃ自殺する、みたいなこと言う子いるじゃん。そういうの、メチャクチャ興奮する。  雨杜くん、そういう雰囲気あったから声掛けちゃったんだけどさあ。  あ、いちおう反省してるよ。取引先でそういうことしたの」  関の話している内容が、まったく頭に入ってこない。  棒立ちの我孫子の目の前に、関の手のひらが迫った。 「今の我孫子くん、あの子よりよっぽどヤバい」  舌なめずりせんばかりの粘着質な声が耳を舐めた。  撫でつけていた髪が崩された。はら、はら、と額に前髪が落ちて、視界が狭まった。  それでいてさえ、関のまなざしが飛び込んでくる。  血液が急降下した。指先が冷たくなる。  相手が男だろうが女だろうが、関係ない。自分がセックスの対象として見られてた時に感じる悪寒だった。  ぐるり、と胃がひっくり返りそうになる。
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