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口元を抑えて、安孫子は僅かに背を丸めた。
その背に関の視線がべったりと貼りついているのを感じる。
「……あいにく、」
歯ぎしりの合間から言葉をひねり出すようにして、安孫子は関を睨んだ。睨んでいないと胃液がこみ上げてきそうだった。
彼は悠々とこちらを見下ろしている。明るいキャラメルのような色をした瞳の奥に、ねっとりとした劣情の熱が籠っている。
「あなたを……抱ける気がしないので、」
「おれが抱いてあげる」
にっこりと関が笑う。
笑っていながら、本気で言っているのが見て取れた。
冗談ではなかった。身体を見られるのは、安孫子にとってこれ以上ない屈辱だ。
脳は煮えるように熱いのに、首筋を流れた汗が冷たい。
「あの、煙草を、」
我孫子の利き手の指が引き攣る。精神安定剤替わりの煙草が必要だった。
指摘されたとおりだ。今の自分は新宿駅で腕を掴んだときの雨杜と、あるいは雨杜以上に不安定な醜態を晒しているのだろう。
「煙草を吸いたいので、出て行ってもらえませんか」
関は案外、簡単に応じた。
「いいよ、外で待ってる」
ドアが閉まる音を聞いて、安孫子は大きく呼吸をした。溺れていた者が、ようやく酸素にありついたような勢いだった。
……どうして。
震える手で煙草に火を点ける。紫煙がいつにも増して、不安定な軌道を描いた。
どうして、関は雨杜を引っ掻き回すようなことを匂わせるのだろう。せっかく雨杜が自虐的な行為を止めて、日向と向かい合おうとしているのに。
成就するかどうか、部外者の我孫子には分からない。
だが、初めて雨杜に会った時に感じた彼の、言いようのない孤独が癒える可能性がわずかでもあるなら、その姿を見たいと思う。そうなるまで見守りたいと思う。
我孫子では雨杜を幸せにすることができないからだ。
いや。
細部は違っていても、安孫子自身も切実な孤独に飲まれている。普段は仕事や酒や煙草で視界を曇らせているだけだ。そうやって見ないふりをしていないと、生きてはいけない。
誰も愛せず、誰にも愛されない現実は辛すぎる。
多分、きっと、自分と雨杜を重ねているのだろう。自分の代替品として雨杜に幸せになって欲しいのだ。そうして、幸せになった雨杜を眺めの良い景色のように眺めていられれば、それで充分だと考えている。
それなら、他ならぬ自分のために身を切るのは当たり前なのではないだろうか。
「偉そうに説教しておきながら、」
つい、苦いものが口をついて出てしまう。
雨杜と同じ立場になって、ようやく彼の気持ちが分かるような気がした。金で解決するならいくらでも出していいと思える。
我孫子は根元まで喫い尽くした煙草をもみ消して、喫煙ルームから出た。スマホを弄っていた関が顔を上げる。
「考え、まとまった?」
「あなたの要求を飲みます。条件付きで」
「へーえ!」
関が感心したように目を剥く。だがそれも一瞬のことだった。
「いいじゃん。可愛い子供を人質にとって親に悪さするなんて、初めての役回りだなー。
普段は<メンヘラの恋人に尽くす健気な彼氏>だからさ、おれ」
関が我孫子のネクタイを掴み、自分の方に引き寄せる。
「我孫子くん。ここ、噛んでいい?」
潜めた声と吐息が、髪を揺らして耳朶を湿らせた。
は、と軽く開いた口と、ぬめりを帯びた舌の気配が耳元に近づく。見なくても分かる。
関の胸を突き飛ばして逃げ出したくなる。同僚の目の前で吐いたら、惨め過ぎて泣くに泣けない。
しかし、だからと言って実行にも移せない。
雨杜の繊細な顔立ちや、女性のように細い身体がちらつく。自分なら上背も体格もある。耐えられる筈だ。
耐えなくてはいけない。
「っ、」
思わず咽喉が鳴った。
関の白い前歯が、キリ、と耳朶を噛み締めたせいだった。
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