1.優しい恋の終わり

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 我孫子はパソコンの画面から目を離した。椅子の背もたれに全体重を預ける。ネクタイを緩めてしまいたいが、得意先なので我慢する。  新システムの導入はまだ時間がかかりそうだ。 「お疲れさま」  目の前にコーヒーが現れた。振り返ると、クライアントである日向だった。ドリップしたてのいい香りに鼻をひくつかせ、ありがたく頂戴する。 「いやあ、終わらないねえ」  社員が帰ってしまった後のオフィスは寒々しい。それだけに、おっとりした日向の存在は癒される。テストプレイに嫌な顔ひとつせず付き合ってくれるというおまけ付きだ。エンジニアとして働きだして五年になるが、協力的なクライアントはまこと貴重種なのだ。 「そのコーヒー、美味しいでしょ? 先週、いいカフェを見つけてね。初めてちゃんとした豆買ったんだ。お湯の注ぎ方とかマスターに教えてもらっちゃった。お湯かけて一分蒸らしてね、こう「の」の字に回しかけるんだって」 「美味しいです、すごく」  言うと、日向はいっそう破顔した。  我孫子の舌は連日の深酒と沼のようなコーヒーで味覚など麻痺している。しかし、クライアントという立場を横に置いても褒めたかった。社会的にも年齢的にも上の男に対して抱くにはどうかと思うが、雄としての警戒心を持たせないのが日向なのだ。 「これからも残業のご褒美に出てきたりします?」 「もちろん。  そうだ。今度ね、自販機を入れることになったの」  日向は自分のデスクからチラシを持ってきた。見慣れたデザインの缶がいくつも印刷されている。 「自販機に何を入れて欲しいか、フロアのみんなにアンケート取ってるんだ。我孫子くん、リクエストある?」  部外者だがいいのだろうか。そう思わなくもなかったが、どうせ参考程度だろう。我孫子はお決まりのコーヒーやらお茶やらを指でなぞっていく。甘さ控えめの清涼飲料、エナジードリンクまである。 「あ、これがあったら嬉しいです」 「ヘパリーゼ? う~ん。相変わらずだねえ」  日向は苦笑いだ。 「コーヒーは日向さんが淹れて下さるんでしょ」  談笑の合間に、不意にドアがノックされた。我孫子も日向も思わず腕時計を見る。そんな時間帯だった。 「タカノビバレッジの雨杜です、遅くにすみません」 「雨杜くん? どうぞ入って」  驚く日向に促されて入ってきたのは、ひょろりとした青年だった。動物に例えるなら子供のキリンだろう。我孫子より五歳ほど年下に見える。片手にビニール袋を提げていた。  ふ、と雨杜と視線がかち合った。肌が総毛だつ。雨杜の瞳の中に見たことのない輝きがあった。 「どうしたのこんな時間に」  思わず不躾な視線を向ける我孫子に気づくことなく、日向が尋ねる。 「あの、今日から遅くなると伺っていたので、夜食を差し入れしたくて」 「え、本当に? 業者さんも大変だなあ。でも、ありがとね。  我孫子くん、こちら雨杜くん。自販機のね、業者さん」  名刺を差し出されたので応じる。  近くで雨杜を見ると、好青年ぶりが際立った。滝の白い飛沫を間近で浴びているような清らかさがある。  一度も染めたことがなさそうな黒髪が丁寧にセットされている。スーツもヨレていない。もしかしたら、一度家に帰って出直してきたのかもしれない。だとするなら、ずいぶんと仕事熱心だ。あるいは会社が相当なブラックなのか。 「わあ、天体堂のフルーツサンドがある! 僕、これ大好き。 お礼にコーヒー淹れてくるね、座って待ってて」  日向は手もみをすると、息子ほど歳の離れた雨杜のためにうきうきと給湯室へ消えていく。  残された我孫子と雨杜は共に沈黙した。お互い、どう世間話を切り出すか、話題を絞っていた。初対面同士だとどうしても気まずい瞬間があるものだ。 「雨杜さんは、この仕事長いんですか?」  結局、我孫子は無難なところに着地した。日向が戻るまで五分もかかるまいと踏んでのことだった。 「いえ、まだ三か月いかないところです」  雨杜がはにかむ。初々しい笑みだった。そうして日向に勧められた椅子にようやく腰を下ろした。話しかけた我孫子と視線を合わせるためであることは明白だった。 「上司や先輩の後を付いて回るだけで精一杯です」 「最初はそんなものですよ」 「我孫子さんは、……煙草吸われますか」  唐突な質問だった。 「ヘビースモーカーです」  話柄の飛び方に、些か戸惑いながら頷く。すると、何故か雨杜は嬉しそうに身を乗り出した。 「ですよね? 煙草の匂いがしたものですから。喫煙仲間は貴重です。今はどこに行っても禁煙、禁煙で。吸う場所がないんですよね」  手を打たんばかりに雨杜は嬉しがる。  反対に我孫子は驚いていた。酒だの煙草だのといった生活の荒みと雨杜が、イコールで結ばれている印象がなかったのだ。  唖然とする我孫子の顔を見て、雨杜は少しテンションを落とした。目を伏せ、人差し指を口元にやる。 「鉄鋼関係の会社に営業してた時、覚えたんです。工場長が喫煙者だったので。喫煙所に行かないと名前を覚えてもらえない雰囲気でしたし。でも、工場長、煙草止めちゃって。  覚えさせておいて酷くないですか」  笑い話とも愚痴ともとれるような、軽い口調だった。しかしけれども、身を捩りたくなるような孤独の匂いがした。  雨杜が小首を傾げて微笑む。ワイシャツの襟もとから首筋が覗いた。白かった。
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