1.優しい恋の終わり

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 我孫子は足を止めた。先日、話に聞いていたとおり、エレベーターを降りたところに自販機が二台設置されていたのだ。なんとなくラインナップに目を通してみる。日向が鷹揚な為か、ずいぶんと自由な品揃えだ。 「我孫子くんのリクエストにも答えてあるよ」  日向が雨杜を伴って、こちらに歩いてくる。確かに下の段に見慣れた小瓶が並んでいる。 「導入遅れてるもんねえ。量、増えてるでしょ」  酒を煽る仕草をされ、我孫子は頭を掻く。 「申し訳ございません」 「しょうがないよ、うちにはパウリ先生がふたりもいるから」 「パウリ先生ってどなたですか?」  雨杜が尋ねる。外国人は見かけたことがないが? といった顔だ。 「物理学の先生のことね。触っただけで機械壊しちゃう人っているでしょ。そういう人のことそう呼んでるの。  この前も新しいカードリーダー壊しちゃって、我孫子くんに会社往復させちゃった」  日向は笑っているが、我孫子からすれば笑い事ではない。もっとも先生方に悪意があるわけではないので、余計に性質が悪いのだが。  我孫子は雨杜に視線をやった。日向の話に頷いていた雨杜は視線に気づくと、薄く微笑んだ。  滅入っていた気が和らぐのを感じる。  どうやら自分は雨杜が好きらしい。  自身の変化は、我孫子に動揺をもたらさなかった。暴力や衝動とは無縁の、優しい恋だったからだ。姿が見えたら嬉しくなる。その程度のものだったので、告白するつもりすらなかった。  遅くまで働いて、睡眠時間を削って酒で憂さ晴らしし、ニコチンとカフェインで無理やり身体を起こす。不健康な生活をしている自覚がある。そういう男の前に、雨杜のようなのが現れたら、慰められるなという方が無理だ。 「それでは、また伺わせていただきます」  丁寧に頭を下げてエレベーターに乗り込んだ雨杜を見送ると、日向は「適当に始めてて」と書類を持つ手を振ってどこかへ行ってしまった。  せっかくなのでアル中御用達の栄養剤を自販機で買い、飲み干す。独特の味が舌に絡んだ。それをやり過ごすために三階の窓の外を見ると、雨杜が営業車に向かって歩いていくところだった。  こうして見下ろしてみると、いよいよ雨杜の身体は小さく思える。さすがに女性よりは骨格がしっかりしているが、我孫子の両腕に収めてもまだ余裕があるだろう。  保護欲に似た、優しい気持ちになる。三年前に彼女と別れて以来、恋愛から遠ざかっていたのですっかり忘れていた。 「さて──」  ポケットに片手を突っ込む。次に雨杜の姿を見られるのはいつになるだろうか。すでに自販機は設置されている。商品の補充などはルートドライバーがやるだろう。雨杜はまた来ると言っていたが、ご機嫌伺いのタイミングで我孫子がここにいるとも限らない。  最後かもしれないな、と独り言ちる。それでも構わなかった。端から我孫子一人が愛でて、緩やかに枯れていく恋なのだ。
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