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昼には土砂降りだった雨は、二十時にはすっかり止んでいた。
我孫子にとって珍しく早い帰宅時間だ。取引先の都合による予定変更だから、なんの予定もない。ぽっかりとあいた時間の埋め方を忘れてしまっている。
このまま家に帰っても、ニュースを見ながら酒を飲むだけになってしまうだろう。勿体ない気がする。
だからだろう。手に傘を持った人々の合間に、雨杜を見つけ、声をかけてしまった。
「我孫子さん、」
雨杜の前髪は濡れていた。
振り返った雨杜の顔を見て、失敗したなと思う。明らかに何か思いつめた表情が、ぱっと作り笑いに変わった。
「お疲れ様です、今からお帰りですか?」
「ええ。
……あー、すみません。姿が見えたものですから、つい」
気まずくなり言葉を濁した。少し視線を逸らせば、雨杜がゴミ箱に投げ込んだばかりの茶封筒が見える。中身はボツになった企画書か何かだろうか。少なくとも愉快なものは入っていないだろう。
「お気になさらないでください」
雨杜も拙いところを見られ、その上で気を使われているのを気にしてか、苦く笑った。
「すごいタイミングでしたね」
「本当に。昔から間が悪くていやになります」
何か遠くを見るように、雨杜が両目を少し伏せた。長いまつげの影が、ふっくらと盛り上がった涙袋に落ちる。
心臓を握られた気がした。
雨杜が煙草の話をしてくれた時に感じた、寂しさの気配が暗い色気となって彼の身体から立ち上っていた。抱き留めたくなる。いや、そうされることを雨杜も望んでいるのかもしれない。
……ばかだな。我孫子はため息を吐いた。恋愛ごとになると、男は驚くほどポジティブになる。それも悪い方に。
「話くらいなら聞きますよ」
両腕を広げる代わりにそう告げる。本気か社交辞令か、どちらでも好きな方を取ってくれれば良い。
雨杜は例の瞳でじっと我孫子を見上げる。我孫子の中に何かを見つけようと探しているようだった。──それで、彼は口を開いた。
「……いえ、大丈夫です」
「そうですか」
「……すみません」
淡い期待がなかったといえば嘘になる。だがまあ仕方がない。雨杜とは知り合ったばかりだ。顔見知りがせいぜいで、同僚でも友人でも恋人でもない。我孫子はどの席にも座っていないのだ。
無理やり口を割らせたところで。雨杜の態度が軟化するとも思えない。
「相談相手が見つかると良いですね」
それでは、と雨杜の脇を過ぎ、改札へ向かう。
いや、向かおうとした。
雨杜に腕を取られて、思わず足を止める。
「いるんですか?」
「え?」
「相談相手なんて、いるんですか?」
妙に切羽詰まった問いに、面食らう。
「それは、上司なり、先輩なりに、」
「っ──!」
雨杜は弾かれたように顔を上げた。尋常ではなかった。黒く大きな瞳が潤み、今にも涙が零れそうになっている。
今度は我孫子が雨杜を捕まえる番だった。今、ここで捕まえないといけないという確信があった。
ぐ、と雨杜の手首を掴む。
雨杜は戸惑ったように引きずられた。
我孫子がゴミ箱から茶封筒を拾い上げると息を飲む。
茶封筒からは、数枚の紙が入っているような厚みを感じた。
「社外秘の文書ですか? ……違うみたいですね」
手の中の雨杜の腕が振るえている。逃げ出したいようだが、力の入れ方を忘れてしまったらしい。首輪がかけられた犬のようについてくる。
面倒に首を突っ込もうとしている。
雨杜の手を引きながら、好きな人の弱みを握りたいのか? と自問した。答えは否だ。我孫子は多くを望んでいない。だが、雨杜が厄介ごとを抱えていて、それによって彼の立場が危うくなるのはその限りではない。
厄介ごとの正体は見えてはいないけれど。
「勘違いだったら、後で謝りますから」
雨杜を振り返る。
血の気の失せた顔が造り物じみていた。唇まで白い。しかし、造り物とするにはあまりにも不安定だった。
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