1.優しい恋の終わり

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 昼には土砂降りだった雨は、二十時にはすっかり止んでいた。  我孫子にとって珍しく早い帰宅時間だ。取引先の都合による予定変更だから、なんの予定もない。ぽっかりとあいた時間の埋め方を忘れてしまっている。  このまま家に帰っても、ニュースを見ながら酒を飲むだけになってしまうだろう。勿体ない気がする。  だからだろう。手に傘を持った人々の合間に、雨杜を見つけ、声をかけてしまった。 「我孫子さん、」  雨杜の前髪は濡れていた。  振り返った雨杜の顔を見て、失敗したなと思う。明らかに何か思いつめた表情が、ぱっと作り笑いに変わった。 「お疲れ様です、今からお帰りですか?」 「ええ。  ……あー、すみません。姿が見えたものですから、つい」  気まずくなり言葉を濁した。少し視線を逸らせば、雨杜がゴミ箱に投げ込んだばかりの茶封筒が見える。中身はボツになった企画書か何かだろうか。少なくとも愉快なものは入っていないだろう。 「お気になさらないでください」  雨杜も拙いところを見られ、その上で気を使われているのを気にしてか、苦く笑った。 「すごいタイミングでしたね」 「本当に。昔から間が悪くていやになります」  何か遠くを見るように、雨杜が両目を少し伏せた。長いまつげの影が、ふっくらと盛り上がった涙袋に落ちる。  心臓を握られた気がした。  雨杜が煙草の話をしてくれた時に感じた、寂しさの気配が暗い色気となって彼の身体から立ち上っていた。抱き留めたくなる。いや、そうされることを雨杜も望んでいるのかもしれない。  ……ばかだな。我孫子はため息を吐いた。恋愛ごとになると、男は驚くほどポジティブになる。それも悪い方に。 「話くらいなら聞きますよ」  両腕を広げる代わりにそう告げる。本気か社交辞令か、どちらでも好きな方を取ってくれれば良い。  雨杜は例の瞳でじっと我孫子を見上げる。我孫子の中に何かを見つけようと探しているようだった。──それで、彼は口を開いた。 「……いえ、大丈夫です」 「そうですか」 「……すみません」  淡い期待がなかったといえば嘘になる。だがまあ仕方がない。雨杜とは知り合ったばかりだ。顔見知りがせいぜいで、同僚でも友人でも恋人でもない。我孫子はどの席にも座っていないのだ。  無理やり口を割らせたところで。雨杜の態度が軟化するとも思えない。 「相談相手が見つかると良いですね」  それでは、と雨杜の脇を過ぎ、改札へ向かう。  いや、向かおうとした。  雨杜に腕を取られて、思わず足を止める。 「いるんですか?」 「え?」 「相談相手なんて、いるんですか?」  妙に切羽詰まった問いに、面食らう。 「それは、上司なり、先輩なりに、」 「っ──!」  雨杜は弾かれたように顔を上げた。尋常ではなかった。黒く大きな瞳が潤み、今にも涙が零れそうになっている。  今度は我孫子が雨杜を捕まえる番だった。今、ここで捕まえないといけないという確信があった。  ぐ、と雨杜の手首を掴む。  雨杜は戸惑ったように引きずられた。  我孫子がゴミ箱から茶封筒を拾い上げると息を飲む。  茶封筒からは、数枚の紙が入っているような厚みを感じた。 「社外秘の文書ですか? ……違うみたいですね」  手の中の雨杜の腕が振るえている。逃げ出したいようだが、力の入れ方を忘れてしまったらしい。首輪がかけられた犬のようについてくる。  面倒に首を突っ込もうとしている。  雨杜の手を引きながら、好きな人の弱みを握りたいのか? と自問した。答えは否だ。我孫子は多くを望んでいない。だが、雨杜が厄介ごとを抱えていて、それによって彼の立場が危うくなるのはその限りではない。  厄介ごとの正体は見えてはいないけれど。 「勘違いだったら、後で謝りますから」  雨杜を振り返る。  血の気の失せた顔が造り物じみていた。唇まで白い。しかし、造り物とするにはあまりにも不安定だった。
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