2.オム・ファタル

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2.オム・ファタル

 報われない相手ばかりを好きになってきた。  雨杜は借りているマンションの一室にたどり着いて、深く息をついた。心臓に当てた手が、確かに鼓動を感じている。  今夜、無事に自分のテリトリーに帰ってこれたのが奇跡に思えた。  スーツジャケットを脱ぎ捨てて、ベッドに倒れ込む。二十三歳の安月給では、狭い部屋しか借りられない。当然ベッドも狭い。うつ伏せになってリネンに鼻先を突っ込む。自分の匂いしかしない。当たり前だ。ここに誰かを呼んだことなどないのだから。  この部屋には、自分の欲情した気配が渦巻いていて、出口がない。 「……我孫子さん、」  呟くと胸が苦しくなった。  名刺を交換したとき、取っ付きにくそうな、恐そうな印象を受けた。いつも眉を顰めてパソコンを睨んでいるような人だ。我孫子が雨杜の上司だったら、名前を呼ばれるだけで竦み上がってしまうだろう。 『ええ、まあ』。曖昧な返事と形容しがたい笑みを思い出す。目には見えないものを押し殺した、苦し気な影が滲んでいた。  好きになれるかもしれない。雨杜は瞳を閉じた。  彼を好きになれたら、止められるかもしれない。今まで恋をした人とはかなりタイプが違うけれども、性根の優しい人には違いない。  受け入れてくれるかどうかはともかく、好きでいることくらいは許してくれるかもしれない。そういう期待が雨杜にはあった。 『人間じゃあねェなあ』  浮かれる思考にストップをかけるように、煙草でいがらっぽくなった声が記憶から再生される。  同性婚が成立して二十五年目の年だった。新聞の見出しを大きく飾っていたのを覚えている。  新聞を広げて、その人が紫煙を吹かした。  二十五年も経てば大抵の人間は環境に馴染む。少なくとも生まれる前から施行されていた制度に、雨杜の周囲で同性婚を真っ向から否定する者はいなかった。テレビの報道番組の討論のネタがせいぜいだった。  だから密かに想いを寄せている相手が、直接的ではないにしろ、雨杜を「人間じゃない」と断じたのは、衝撃であり、断罪であり、最もたる拒絶だった。  あの日、営業に出向いた雨杜は、工場長にどう返答したのか覚えていない。  ただ、工場長と話をしたいがために覚えた煙草がやけに苦く、咽喉につっかえたのだけを覚えている。  彼には妻と子供とがあって、家族を腕一本で養うことに誇りを持っていた節がある。昔気質の職人というのは、この人のことを言うのだろうと思っていた。情に篤いところがあって、そこが好きだったのだ。  妻子から彼を奪いたかったわけではないから、雨杜は泣いて、それで終いにした。  煙草を吸う習慣だけが残った。  その傷が癒えようかという時、雨杜は日向を好きになった。穏やかで鷹揚なところが良かった。甘いものを好む日向に倣って、SNSで有名な店を探したりもした。贔屓の店の品を差し入れすれば、分かり易く喜んでくれたから、甲斐があった。  その一方で、この人は出入り業者として可愛がってはくれるだろうけれども、恋愛対象としては見てくれないだろう、という勘が働いた。  雨杜は好きになった相手に、好意の種類を(たが)うことなく好かれたためしがないのだ。  どちらかというと、雨杜は人見知りをする、大人しい性質だ。それを曲げて人懐こいふりをしているのだから、どうしたって神経は磨り減る。だのに、相手が報いてくれないのでは甲斐がなく、虚しいだけだ。  雨杜は一方的に好意を向け続けることに、心底疲れていた。  誰かに報いてもらいたい。  誰かの目に止めてもらいたい。  ぞくぞくと下半身が疼いた。ベルトを引き抜いてスラックスを下ろし、脚を開く。  誰にも見てもらえないなら、無いのと同じだ。  見てもらえるのなら、できるだけ大勢が良い。その中にはきっとお父さんがいるはずだから。 「……あ、びこ、さん、」  はらと涙が零れる。  優しくされたいと思った。  はしたない姿を映した画像を前にして、彼は動揺こそしたが、軽蔑まではしなかったように見えた。それどころか心配してくれさえした。  我孫子が手をあげた時、ときめいていた。打たれるだけでも多分きっと嬉しかっただろうに、彼は自制心でもってそうしなかった。常から寄せている眉間の皺をさらに深くして、後悔する素振りまで見せた。 「……大人、だなあ……」  雨杜は空いた方の手で枕元のスマホを探り当てる。カメラを起動すると我孫子に指摘された通り、自分の泣き顔が画面に映った。  嫌な気持ちになった。  人間ではなかった。保たれた調和を乱す、化け物の顔をしていた。  母が再婚をしたときから、雨杜は人間の顔をしていない。
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