2.オム・ファタル

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 目の前に雨杜の肌が迫っている。陽に当たったことのない白い肌から、においまで立ち昇ってきそうだ。  これは夢だ、と我孫子は夢の中で足掻いた。手足はおろか、目覚める気配すらない。金縛り状態だ。  雨杜は白いシャツ一枚を纏っていたが、サイズが合っていないのか片方の肩がむき出しになっていた。なにより六つあるボタンのうち、下半分しか掛けていない。ぺたりと座り込み、上半身を前方へ傾けているせいで鳩尾まで見て取れる。  夢のくせに、と冷や汗が流れた。  今の雨杜の姿は、茶封筒に入っていた画像の再現だ。ばかげたスライドショーだった。  じっ、と七色の光を宿す瞳が我孫子を見つめてくる。  白い筈の頬に血の気が上っていた。二十を過ぎた男というより、少女のような透明感だ。  脱がせるまでもなく露出した肌は、すべてがそうだった。  あるかないかの産毛に包まれた耳たぶも、触れるのが恐ろしくなるくらい細い首筋も、肌の白さのせいで血の色を透かせている。  それがまた雨杜の初々しさを強く印象付けた。踏み荒らされる前の雪原の趣きがある。  そのくせ全身から欲情の熱を発していた。柔い肌を汗で湿らせ、さも自身は、果汁がしたたり落ちんばかりの果実であるかのように誇示している。  我孫子が真っ当な人間だったなら、手を伸ばさないではいられない姿だろう。  細い身体をかき抱いて押し倒し、雄としての優性を存分に満足させたかっただろう。  ──悪い夢だ。  実際の雨杜とは、我孫子の望んだ姿とは別の側面を持っていた。  プリントアウトされて突きつけられた真実の雨杜とは、白くて細い両脚を開いて見せ付けるような、欲を煽るような自慰をする姿だった。あるいはこちらに尻を向けて、その奥にバイブを咥え込んでいる姿だった。  夢の中の雨杜は、我孫子の頬に手を添えてきた。  そのくらいの距離に縮まっていた。吐息が前髪を揺らすほど近い。  瞳が濡れている。男にしては長いまつげが朝露のように雫を湛えている。  雨杜の手、ことさら指先は、ひんやりとしていた。そのくせなめらかな皮膚の下に血筋が通う生々しさがある。  三年ぶりに触れた人肌だった。夢であったにせよ。  全身の血の気が抜かれた気がする。  我孫子は呻いた。胃から口へ、逆流をする気配がしたからだ。一刻も早く目覚めたかった。酒を過ごした時のように腹のあたりで悪いものが渦を巻いている。  酒なら吐き出してしまえば楽になる。だが、は出す場所がない。  どこかひとつでもいい。身体のひとつが動けば、それをきっかけに夢から覚める筈だ。  そう苦心をするのだが、自分のものだというのに身体はままならない。  ──と、いよいよ物欲しげな顔をした雨杜が眼前に迫った。  く、と雨杜は我孫子に向かって小首を傾げ、唇を突き出す。肉の薄い下唇は赤く充血して、口付けを待っている。唇の奥には、いっそう熱を帯びた柔らかな舌が潜んでいるのだろう。  劣情の湿度を知っている舌だ。  もうだめだった。 「っっ、  は……っ、」  破裂に近い目覚めだった。  心臓が跳ねている。  まず咽喉の乾きを覚えた。寝入りばな、深酒をしたせいだ。次に汗だくの心地悪さを感じた。肌に布が貼りつく気色の悪さ。 「……っ、はぁっ、はぁっ、」  呼吸を宥め、自身の状態を確認するのに少しの時間を要した。  寝返りを打つといよいよ吐き気が鮮明になって、安孫子はシンクに吐いた。トイレまで一歩の距離だったが、よろける足取りではドアを開ける間もなかったのだ。 「う、」  待っていたかのように吐瀉物がばたばたとシンクを打つ。臓物がひっくり返る、収まりの悪さが罰のようだった。  つ、と胃液の一筋が首に伝った。  吐いた後は必ず虚しさが伴う。  胃液の酸いにおいを洗い流すと、物を燃した焦げのにおいが上書きをした 。  カラオケボックスの一室で、雨杜は茶封筒をこちらに差し出した。我孫子の手で処分して欲しいと言われた。それで、安孫子は警報機が鳴らない程度に細かにして燃したのだった。  雨杜に封筒を任せたらどう扱うのか予想がつかない。また人数の多い場所に放置するかもしれないし、今ならネットに流すことだって十分に考えられる。だから、こちらの要求を飲んでくれた証だと信用したのだ。  信用したかった。  作業の合間、安孫子は雨杜が自分の思ったような人間でないことを思った。  観葉植物に似た透明さがきっかけだったが、雨杜は安孫子が避けて通ってきた性欲を持て余していた。それも、自身でさえ抱えきれない濃密さで。  方向性はともかく、当たり前のことだ。  二十代も前半なら、当たり前のことだ。  若い男が性欲に振り回される滑稽さを、誰もが笑えない。脂の落ちた男なら己の過去を振り返ってその情熱を羨ましがるだろう。良い女なら未熟さに由来する必死さを愛おしく包んでやりたく思えるだろう。  しかし、その両方を我孫子は持っていない。  濃密な性の匂いが脳みそをかき混ぜて、劣等感を煽っていくだけだ。この三年、どこに捨てればいいのか場所さえ見つけられていない。 「きしょくわる、」  胃液と共に舌に絡んだ油分のせいで言葉選びまで悪くなった。  本当は違うことを言いたかった。本音は曖昧模糊の渦を巻いたまま、流れていく。  臓物の収まりの悪さはまだ続いている。  我孫子は人差し指と中指を慎重に口の中に差し込んで、舌より奥の体温を感知して、えずいた。胃が浮き上がって、定位置に落ちた音が腹に響いた。  吐いた残骸がヌメヌメしたものをまとってシンクから排水溝のカゴに向かって流れていく。  嘔吐の間に得られた安息は長く続かなかった。気分の悪さにかき足られるように更に短く、安孫子は吐いた。  すべて指を使ってのことだった。  粘膜を傷つけるのを遠慮しない、力づくの行為だったので第二関節までもが口内を押して、胃液の逆流を煽った。 「う、……ぅ……うっ、」  勢いに任せた純粋な胃液が迸った。  指先に触れた体液は生温かく、臓物の温度を思わせる。粘度をもった胃液が肘まで伝った。  吐瀉物の残骸を確認すると全身の力が抜けて、両手をシンクに掛けたまま、安孫子は膝をついた。  両肩を雨杜に押し付けられているようなものだ。雨杜に処遇を託され、安孫子が燃した画像のにおい。 「気色悪ィなあっ、」  我孫子はぐっと唇の片側を持ち上げて低く咆哮した。  と、スマートフォンが甲高い音で鳴る。 「…………、」  午前六時を示していた。  出社の準備をする時間だ。  真っ当な人間の顔をしなくてはいけない時間だった。  深い溜息が出る。洗い流さないうちの両手で顔を覆うと、はらわたの生々しい臭いがした。 「…………助けてくれ、」  また吐き気がこみ上げてきそうだった。何を吐けば楽になれるのか、分かっている。
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