取材:桐原 次久(きりはら つぐひさ) 双子の弟

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取材:桐原 次久(きりはら つぐひさ) 双子の弟

 こんなことを人様にお話しするものではないのですし、たいへんに気の引けることでありますが、──あのう、そのう、──お約束のお金は本当に頂けるのでございますか。  ああ……、ああ、ありがとうございます。ひぃ、ふぅ、みぃ、よ……。  おありがとうございます、おありがとうございます。これで当面、酒に困ることもございません。  それで、あのぅ、恐縮ではありますが舌を滑らかにしたいもので、えぇ、少しばかりお酒をいただけませんでしょうか。  いえ、大したものでなくったってかまいません。戦後ですもの。やたら物価が上がっちまってしょうがない。  私は商家の次男坊だったけれども、何分おつむの具合が悪くありましてねえ。実家の資産が紙きれになってゆくのを、酒などやりながら呆けているしかなかったのですよ。  ずいぶんと損をいたしました。  ですがねえ、それでも、あの邪悪な兄のお話をするにはおそろしくあるのです。正気ではとてもお話できない。どうしたって報復を考えてしまう。  あなた、兄を見たことがおありですか? そちらのあなたは? ええ、ええ、そうでしょうとも。いかにも人道とか倫理とかとは無縁に見えましたでしょう。  世間様は、兄を凱旋将軍なんぞとやたら持ち上げておりますが、そんな良いものじゃァない。  実際、実の双子の弟である私ですら、あの人は殺そうとしたのです。姉が気狂いになったのも兄の仕業です。父は長男可愛さに見ないふりをしていますが、きっとそうに違いないのです。  朝枝とてそうです、私はここ六年ほど朝枝のおもちゃでした。女郎なんかよりよほど酷い扱いを受けてきたのです。  ああ、ありがとうございます。頂戴をいたします。あぁ、これは良いお酒だ。胃の腑にくぅっと熱っついのが落ちてきますな。  ああ、なんとも良い心持ちだ。お代わりですか。えぇ、頂けるならいくらでも。  あらあら、そう急いで注がなくても。溢したら勿体ないったら。  ────……そう。兄と朝枝でした。  いったいどこからお話したらいいやら。久々の酒で、頭がいっこう回りません。  やはり最初からお話するのが宜しいのでしょうね、きっと。あとはもうどうにでも。煮るなり焼くなりして下さいまし。  私が精通を迎えましたのは、桐原家本邸の庭先でした。四月も末でねえ、青空の下で蜜をいっぱいに含んだ花が爛々と咲き誇って、辺りは甘い匂いが漂っておりました。  思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれません。兄は病弱で粥を啜るのが精いっぱい、姉は気が触れて大瓶の中で気味の悪い独り言を繰り返すばかりでしたから。  となれば、今や、軍需産業によって隆盛した桐原家の当主は私以外にない!   ……などと幼いながらに、番頭や使用人たちの期待を間に受けて、私もそれなりに奮起していたのですよ……。  今思い出すに恥ずかしいばかりです。死んで尚、雪がれぬ恥です。  ……あの日、勉強の息抜きにと庭に出ますと、兄がおりました。  兄は夜着を着ておりましたが、外に出ないせいで肌は夜着と変わらぬ白さで、ほとんど境界線が見つかりませんでした。目を凝らして凝らして、静脈の青さにようやく糸口を掴むような有様で……、  まったくの無防備、まったくの非力でございました。  それで、兄を亡き者にしてしまおうと溺惑したのです。  ──やあ、ありがとう。頂戴を致します。……はあ……、やはり酒はどんなときでも美味い。慰めですよ。  ァあ、続きですか? ええ、お話いたしますとも。  私は庭に落ちていた石を拾って、兄の頭を打ちました。正真正銘、殺す気でおりました。  兄は兄で病やら薬やらで脳髄がぼんやりしていたんでしょう。  あの頃はとくに強い薬を飲んでいたようですし。  もろに石を受けて、倒れ伏してしまったのです。今となっては想像もできませんでしょうが、芋虫のように愚鈍でありました。  私は兄に馬乗りになって石で頭をぶつけ続けても、まだ安心ができませんでねぇ。  だってまだ息をしているんですもの。  棒っきれみたいな手足で抵抗しているんですもの。  そりゃあ、子供だてらに必死になりますとも。あの兄が相手なんですから。  ……そりゃァ、あなた、そうでしょうよ。  参謀本部にこの人ありと謳われた、桐原鋭一なんですもの。  ですけどねえ、無我夢中で拳の中の石を振り続けて、その石が真っ赤になる頃にはね、兄がガクッと頸を仰け反らせましてね、一切の無抵抗、全面降伏の態になったんです。  兄の白い額には血筋がみっつほど流れて、顎まで届いておりましてね、莫迦みたいに艶のある黒い前髪が張り付いてございました。  眉は苦悶の形に顰められておりまして、唇は薄く開かれていて、そこから食いしばった歯を覗くことができました。  そういうのが、晩春の陽光に照らし出されましてねぇ。  そりゃあ、勘違いも致しますよ。  私は神にでもなったような心持になりまして、恍惚の虜になりました。  ええ、ええ、ぜひとも嗤ってくださいませ。  陛下に対して不敬なのは承知の上です。けれど、けれど、ご容赦を頂けるのであれば、子供の可愛い勘違いなのですよ。  ですからあなた、そう恐い顔をなさらないで。誰にだって自らを無敵と信じる、信じてしまう、青く忌まわしい時期があるのものでしょう?  で、結局、私は、着物の裾をたくし上げ、脳の髄まで莫迦になりながら扱きあげましてねえ、兄の顔にぶちまけてやったのですよ。  まァ子供のものでございますから、可愛いやつですよ。  しかし男の性なのでしょうねぇ。ちんまい武器なりに、征服してやったという充足で頭がボォっとなりました。  大変な喜悦でございました。  生まれた順番とかいう、勝手に付けられた逆転の決定打を打ってやったのだと胸のすく思いがいたしました。  こればかりは女郎屋の女にいかような辱めを与えたとて、得られるものではありません。実際、花魁どもの誰とて、あの時以上のものを与えてはくれませんでした。  ……あぁ、いや。今のは言い間違いにございます。うん。どうにもお酒が足りないようです。えぇ。まるで私が、私は……。  ア、あァ、  おありがとうございます。大変に結構なものを頂きまして。  ええ、ええ。頂戴を致します。  ───沁みますな。いい酒だ。胃の腑にくぅっと熱っついのが……、この話、前にも致しましたか?  アァ、そう……。  兄でございますか? その後、すぐに反撃されましてね。使用人が止めなければ生きてはいなかったでしょう。  以来、ずっと私は右足が利かないのです。  兄の足元を這いまわる虫なのです。生かされている理由すら分かりません。  私には、兄の心が分からないのでございます。  瞬きの間の天下でありましたから、ねえあなた、さっきの失言をお許しくださいね、きっとですよ。  アカの手先と思われた日にはやっておれません。  最近じゃァ、九鬼なんて憲兵が幅をきせているそうじゃあございませんか。そんなのは、そんなのは、ご免ですよ……。  ……朝枝の話をする前に、頂けるならもう一杯、頂戴を致したく。とうてい素面ではいやですよ。  朝枝という男は人格破綻者なのです。  あの兄の友人なんてものをやっているのですから、当然ですとも。  朝枝はちょいと見る分には良い男なんでしょう。なんせ、あの朝枝家の嫡子ですからね。羽振りが良くって遊び方も弁えてる。女がすり寄らない方がおかしい。  ですがね、青年実業家の仮面を外してみれば、とんでもない男なのですよ。  六年前、私は浮かれておりましてね。いよいよ西方と戦争が始まるんじゃないか、なんて新聞で騒がれてた頃です。  兄はその頃、少尉かその辺だったんじゃないかなあ。ともかく、前線で死ぬだろうなって辺りでした。  私、浮かれておりましてねぇ……。あの兄が手を下すまでもなく、くたばってくれるかもしれないんですから。そりゃあ、期待をしますよ。  すっかり私をお見限りの父だって、長男がなけりゃ私に縋るよりないんですから。  兄を庭で殴って以来の機会が巡ってきたわけです。  それでね、毎晩、仲間を呼び寄せちゃあ、早めの祝宴を開いていましてねえ。座敷を借り切って、芸者やら幇間なんかを侍らせまして。紋日も近かったんで、女たちの愛想も良くって、そりゃあ盛り上がっていたのでございますよ。  ところがですね、ある晩、私の座敷に朝枝が乗り込んでまいりましてね。  私の腕を引っ掴むなり、自分ところへ引きずっていこうとしたんです。  おっかなくてね。  仲間たちを振り返ってもみぃんな呆気に取られてるし、見世の女たちも上客のご機嫌を損ねちゃいけないってんで「悪いことは言わないから、さっさとお行きよ」って顔をする始末なんですよ。  私の味方なんて一人としてないのです。  それで、座敷に投げ込まれますとね、兄がいたんでございますよ。  帯青茶褐色の軍服を着てましてね、胸を飾る勲章やら肩から吊るした参謀飾緒が煌びやかで、立派な青年将校の態でした。  朝枝が「鋭一ちゃん、連れてきたよ」って笑いかけるんで、ますます混乱をしましてね。  あの邪悪な兄に臆したことのない人間は初めてでございました。  兄の方も、別段、気を悪くしたふうでもなく、余程の関係なのだと恐ろしくなりましたねえ。 「僕は双子を初めてみるけど、そっくりだ。気味が悪いや」 「似るものか」 「栄郎さんのご気分を害しやしないかな」 「下らん杞憂だ」 「そう? じゃ、やっとこうかな」  ってな会話が、私の頭の上で交わされましてねえ。  事情は飲み込めないものの、不味いことになったって、それだけは分かったんでございますよ。  いやぁな心持ちで、尻に火が点いたように落ち着かなくって。  だって考えてごらんなさいよ。あの二人が私の良いように物事を仕向けてくれるわけがないんだから。  私、だらだら汗を流しましてねえ。兄が茶を啜る横顔を、神経をすり減らしながら窺っておりました。  え? ……あァ、兄は酒をやらないのですよ。それこそ一滴も。とんだ無粋者でしょう?  ともかく、朝枝が父の名前を出したのやら、何の用があって人攫いみたいな真似をするんだか、まるで話が見えないじゃあございませんか。  そのうち黙っているのも恐ろしくなってきましてねえ。「兄さん、何の用なの」って口を利いたんでございます。 すると、 「用があるのは僕の方」  って朝枝が笑うんです。  あの笑い方、何なんでしょうねえ。性根の腐りきった狐みたいな顔ですよ。  それでまあ、──朝枝にやられっちまったんです。  兄に軍刀を持ち出されて動くなと言われりゃあ、もうどうにもなりません。  以来、私はずっと朝枝に使われているのでございますよ。  あの二人の間でどういうやり取りがあって、兄が同じ顔を差し出したんだか、今でも知らないままです。知らないまま朝枝のおもちゃをやっているのです。  どうです? 愉快な酒の肴になりましたでしょう。  ……え? あなた、もっと詳しくって仰るんですか?  ……はぁ。虐めなくたっていいでしょうに。  ええ、頂きますとも。  やあ、こちらからも。おありがとうございます。  どうして皆さん、寄ってたかって私を惨めをさせるんだか。兄弟の出来の悪い方になんざ、産まれるものじゃぁありませんな……、  ふぅ。  おっと、やあ失礼……、  手元が狂っちまいました。  これ以上は止めておきましょう、きっとロクなことが待ってない。  いえ、もう結構、充分にご馳走になりましたとも。  ──いやちょっと待ってくださいな。  誰もそんなこと言いやしませんよ、乱暴なことを仰らずともようございましょうに、ですから……。  はあ、もうこれッきりですからね。  頂きますとも。  あなた、そう肩を掴まなくたって、……はぁ、  ……酒が変わりましたか……?  この部屋、少しばかり熱くはございませんか? おかしいな。  話の続き?  えぇと、どこまでお話しましたかね、  ──あぁ、朝枝の、はぁ、いやだな。  こう、畳の上に転がされましてね、頭を押さえ付けられながら、犬っころみたいにされたんですよ。  あの男、ろくろく慣らしもしないで挿れたもんだから、痛くて、はらわたン中がぐちゃぐちゃで、もう痛くってねえ……。  だって女じゃないですもの。  それなのに腰を掴まれて揺すられるんです。  ありとあらゆる泣き言でもって乞いましたとも。  恥だなんて知ったこっちゃなかった。今思えば、舌でも噛み切って死んでしまえばよかったんですかねえ。  でも、思い付きもしなかったんですよ、その時は。  ……それでもだぁれも助けになんざこないし。  ──それに兄が。  兄が私を見下ろしているんです。  尻たぶを割り開かされて、涎やら洟やらで顔をぐちゃぐちゃにしている私を。  ……どんな? さあ、どうだったでしょう。でも笑ってはいませんでしたように思います。  聞こえるのは朝枝の愉快そうな、捲し立てる早口ばかりで。  兄が勝ち誇ったような顔のひとつもしていれば、朝枝と同じように劣情をもよおしていればまだ分かり易かった。  でも、私は莫迦ですから。  莫迦には兄の了見が分からないのです。  このまま泣き喚いて無様を晒せばいいのか、朝枝の奴に善がって見せればほんの少しでもこの地獄から解放されるのか、分かりませんでねえ。  ──あぁ、……私は兄の足元に這いまわるよりないのに、兄のご機嫌ひとつ取ることができないのですねえ。  ……そりゃあ、愚鈍とも言われる筈だ。  ……莫迦に熱いな……。  なんですか、あなた。私をジっと見たりして。お代わりですか?  それじゃあ、せっかくだから。  ええ、何べんも申し上げました通り、朝枝とは今も通じておりますとも。  なぜ? なぜってあなた、やられないではおれなくなったに決まってるじゃないですか。  なんででしょうね、なんでかな。  最初は朝枝に呼びつけられたあとは、必ず女郎を買ってたんですけれど。ある日を境に、要らなくなっちまったんですよ。  いや、朝枝を断ると兄が恐いから。  ……兄は、えぇと、西方から還ってきて、  えぇ、忙しくしているようですな、桐原の家にも帰ってこない。  ……あら、それじゃァ私にかまけてる暇なんてありはしないのか……。  あぁ、そうですよ。思い出しました。やられないではおれないから、朝枝に使われているのです。  これまでずいぶんと便利なおもちゃをして参りました。  知りたいですか、私がこれまでどれだけ恥知らずな真似をしてきたのか。  ねえ、あなた。そちらのあなたは?  っは、……あ、  ──な、なんです、急に触ったりして、  ……いやだな、いやな人だ……。  女にちょっかいを出すんじゃないんだから。  男をね、男をいい様にしようと思ったら、乱暴でなくちゃいけないんですよ。上から押さえ付けて、指の一本も折って、乱暴をしなきゃいけないんです。  私があなた方を口汚く罵るなら、日がな豚小屋で豚の乳を飲まして躾けてやらないといけないんですよ。  おや? ご存じない? 虎の子に豚の乳を飲ませて育ててやるとね、人様に噛みつかない、牙のない豚みたいな虎に育つって按排なんです。  私だって朝枝にそうされてきたんだ。  ──……泣いて、……私は泣いてますか。  ──それは一大事だ。どなたか鏡をお持ちでない? あなたも? 本当に鏡がないんですね?  ならこの杯にお酒をいただけますか、どうぞ並々注いでくださいまし、  ……はあ、はは、ふふふ。  ご覧なさいな、兄が泣いております。
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