ティル・ナ・ノーグの幻影

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 夜の細い坂道を運転するのは苦手、という妻の運転に送られて、倉持浩志はいつも通り坂の手前で車から降り、その道の突き当りにある一軒の家を見上げた。  日々、呪文を唱えている男が住む家。  酸化チタン、アルミニウム合金、ステンレス。  若い頃はこんな坂くらい跳ねるようにいけたもんだが、と彼はぎしぎしと軋む膝をさすりながら、一週間ぶりのゆるやかな坂を、一歩一歩確かめるようにゆっくり上っていく。  昔はここも新興住宅地で、小さな子供たちや若い夫婦が、辺りの空気を夏のように輝かせていたに違いない。けれど、今はすっかり子供たちも遠くへ旅立ち、その子供たちが孫を連れて坂道を上って来るのを待ちわびて、レースのカーテンの隙間から外を覗くかさかさとした音が聞こえるだけだ。  坂の上に住む男の耳に響くのは、別の幻聴。  酸化チタン、アルミニウム合金、ステンレス。  男は、今年56で街の科学館の学芸員を早期退職し、安く売りに出されていたその坂の上の小さな家を買った。  倉持の大学時代からの飲み友達、西島哲也。  いつものように鍵のかかっていない玄関のドアを開け、倉持は大声を出した。 「おい、強盗だぞ!」 「強盗はそんなふうに入って来ないぞ!」奥の部屋から大声が答えた。 「鍵くらいかけろ。物騒なんだよ」  倉持は持ってきた一口羊羹と缶ビールを、乱雑に新聞やチラシの束が置かれた小さなちゃぶ台に置いた。  白いデスクライトだけが照らす暗いダイニングのテーブルの上で、ノートパソコンに向かう男の背中に声をかけた。 「今週の収穫は?」  西島はぐるりとからだをひねって倉持を見ると、わかってるくせに、というように眉を上げた。 「ゼロ」
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