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はじまりは、彼女の方からだった。
彼女が唐突に、私の部屋へ、公共放送の料金徴収員を騙って侵入してきたのは、とある蒸し暑い夏の夜のことだった。
そのとき、私は彼女のことを全く見知らぬ人間だと思った。
だが、彼女が包丁をかざして、私を脅しながら、私の手を手錠で拘束しようとしている最中、気が付いた。
この声には聞き覚えがある。
彼女のことを私は知っている。
話したことさえないが、よく知っている。
……そう、彼女は同じアパートの、下の階に住むあのひとだった。
木造モルタル築35年の、私の住むアパートは年相応の安普請で、壁も、天井も薄い。
だから、綺麗なソプラノの彼女の声は、すっかり古びた畳の下から最初は、ぼそぼそと、やがて私が、彼女の声を楽しみに床にぴったりと耳を付けて聞き入るようになってからは、はっきりと、私の元に届いていた。
彼女の声は、私の耳にことのほか心地よかった。
中学時代の初恋だった、国語教師の声に似ていると思ったし、高校時代夢中になった、先輩の声に似ているとも思った。
ラジオの歌番組に合わせた鼻唄も、その夜その夜ごとに変わる恋人との睦言も、親しき友らしき人との電話での会話の内容も、全てが好みだった。
ある日彼女は、誰かと非常に事務的な電話をしていた。耳を澄ませば、引っ越し業者への見積もり依頼の電話である。
彼女は、程なく引っ越してしまう。私の元からいなくなってしまう。私は心許無い気持ちでその日一日中過ごした。
……彼女が、私の部屋に侵入してきたのは、その夜だった。
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