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―侍従セリスの特別な一日Ⅲ 準貴族の娘―
「ご無沙汰しております、カタリナ様」
「そう言えば、長らく会っていないわ。そんなに旅をしていたの?」
執務机の席を立って、カタリナは、自分専用の長椅子に移動した。
それに伴って、セリスも移動し、彼女の長椅子の横に立つ。
「どうぞ、座って。ご令嬢は向かいでいいわ。お顔をよく拝見したいもの」
そう言うと、サブリの連れてきた娘は、肩を揺らして、恐れるように顔を上げた。
目も髪も茶色の娘は、セリスから見て、奇妙な土の気配がした。
違和感の正体は判らないけれど、判らないものには、最大限の注意が必要だ。
「セリス、チキが食べたいわ、持ってきて!」
「かしこまりました」
チキと言うのは、豆の表面を砂糖で固めた、丸い、指で摘む菓子のひとつだ。
セリスは、カタリナに礼を示して、控えていた女給に目を向けた。
彼女は心得たことを示して頷き、衝立の陰に消えると、小さな給仕場で茶の支度を始めた。
「さあ、ご令嬢のお名前を聞かせて」
サブリが頷いて口を開いた。
当の令嬢は、それを見て、不安そうな目をカタリナに向け、にこりと微笑みを向けられて、慌てて顔を伏せた。
「10年以上前ですが、妹が貴族でない商人に嫁ぎましてね。この子の父親ですが、そのうち、身代を大きくして、現在は準の菓家となりました」
「あら、あとから来るのは…」
「はい。この子の父親です。それで、以前から、我が家で行儀見習いをさせていたのですが、2年前に王立学院付属初級棟に通い始めてから、高位貴族の振る舞いも身に付けさせましてね。できれば、王女殿下のお眼鏡に適うか、見てみたいのですよ」
「うーん。まあ、この様子では、心配だけれど」
はっきりと言うカタリナに、サブリは笑い声を立てた。
「ええ、まあ。しかし、肉親の欲目もありますが、ちょっとしたものです。どちらかと言うと、お目に掛けたいところです」
「あら。それは期待してしまうわね。ああ、来たわ」
「失礼します」
女給が、そっと声を掛けて、それを聞いた娘は、顔を上げて、女給の所作を、じっと見つめた。
「控えます」
茶の席を整えた女給が言うと、カタリナは、茶の、たっぷり入った急須を机に置いてから、控えるようにと指示を出した。
「かしこまりました」
そうして、まだ名を語られない娘の前に急須が置かれ、女給は、先ほどよりも近くに控えた。
「リーベル」
サブリの呼び掛けに、娘は、びくっと体を揺らした。
「はっ!いっ!えと…」
娘は、何か思い出すような目をして、それから、椅子の上で居住まいを正すと、今度は、恐れのためではなく、挨拶のために視線を伏せた。
「初めてお目に掛かります、リーベル・スノーと申します。座ったままで失礼をお許しくださいませ」
「ええ、もちろん、座れと言ったのは私だもの。リーベル。かわいらしい名ね。あなたにぴったり。初級棟に入ったのが2年前なら、今、15歳かしら」
「あ、いえ、来月に15です」
「そう。では、1年違いということね。私は、カタリナ・シェリル・メイリスシール・ケイマスと言います。知っているかもしれないけれど、上は兄だけなので、私が第1王女よ」
「あ!は、はい!存じております…」
「さ、じゃあ、チキでもどうぞ。感想を聞かせて」
チキは、ケイマストラ王国の貴族の令嬢の間で、最も有名と言っていい菓子だ。
その感想を聞かせろ、とは、通常と変わらぬ見掛けに反して、変わった仕掛けがあるのかもしれない。
誰から見ても、表情を輝かせたリーベルは、いただきますと言って、一粒、口に入れて、ゆっくりと味わい、そして、呑み込む直前から、とてもとても悲しそうな顔をして喉を動かすと、がっくりと頭を垂れた。
「馴染みの味でした…」
元気なく呟くリーベルの様子を見て、カタリナは、弾かれたように笑った。
「あはははは!正直な子ね!」
「はは。お恥ずかしい。しかしながら、このような娘も、カタリナ様には、落ち着かれるかと」
サブリの言葉に、確かにと答えて、カタリナは、リーベルの顔を眺めた。
どのように対応すればいいのか、迷いながらも、その表情には、先ほどの落胆が尾を引いていることが判って、カタリナは、はしたなく吹き出すと、しばらく笑いを収めるのに苦労した。
「はあ、ごめんなさいね、笑ったりして。期待を裏切ったお詫びに、ベレヌゼフ公家のテリーゼと、このあとに約束があるから、今度こそ喜んでもらえる菓子を用意するわ」
「わあ!あっ!……すみません…」
感激の声を止めて、小さくなるリーベルに、サブリは、笑顔が絶えない。
それは嫌みなどではなく、目に入れても痛くないとはこのことだと、言わんばかりのものだった。
「はは。まだまだ、貴族の集まりには出せそうにないな。ベレヌゼフ公家令嬢には、気を悪くされないでしょうか?」
「あら!テリーゼはそんな狭量じゃないわよ!そうそう!あなたにお願いがあったのよ、サブリ」
「はい、伺いましょう」
「明日の昼から、そちらで茶会を開けない?あなたの土産話を、聞きたいと思っているの。親しい貴族の令嬢を幾人か呼びたいけれど、もし、そんな用意がリーベルにあれば、任せてくれて構わないわ」
「は!」
リーベルが、息を呑み、目を見張る。
カタリナはそちらに、包み込むような微笑を向けた。
「堅苦しいのは避けて欲しいわ。飾りは要らない。ただ、あなたの気持ちを見せてちょうだい」
「いいかい、リーベル」
伯父の穏やかな声が、後押ししたのだろう。
リーベルは、背筋を伸ばして、顎を引いた。
「光栄に存じます。心を込めて、お迎えさせていただきます」
カタリナは頷いて、茶に口を付けた。
「さて、と。サブリ。あなたには、もうひとつ確認したいわ」
サブリは、心得て頷いた。
「アルシュファイド王国の商人ですね」
「ええ。ボルドウィン家とは、何?」
「正真正銘の商人ですよ。ただし、アルシュファイド王国のハクラ港を掌握している大商人です」
カタリナは眉を顰めた。
「ごめんなさい、さすがに、異国の港の事情には暗いわ。確か、北海(ほっかい)に面した港よね」
アルシュファイド王国と言うのは、大陸の南北の端まで横たわる大きな国なので、大陸の北の海、北海と、南の海、南海に面しており、手前の島が入出国島になってはいるが、寄港地と呼ぶなら、大陸の沿岸に在る、南はレテリム港、北はハクラ港になる。
「とても、とても大きな港でした…」
思い出すようにリーベルが言い、夢見るように溜め息を吐く。
「ああ、とても大きかった。あの巨大さは、口頭では伝わらないでしょう。ざっくりした説明になりますが、ハクラ港は、利用目的ごとに埠頭が分かれていて、大型客船が何隻も…いや、10隻以上でしょうね、停泊できる第4埠頭と、巨大戦艦が、これまた10隻以上停泊できる第3埠頭と、大型のものを含む漁船が恐ろしいほどに並ぶ第2埠頭と、超を付けたいほどの大型の貨物船が並ぶ第1埠頭となっています。そんな、一国丸ごとの経済を左右できる規模の港を、掌握しているのです。いやはや、自分の小ささを思い知りましたよ…」
「え、と…、そ、そう?」
カタリナには、そこまで言われても、よく判らなかったが、頭の中に残った言葉を思い返していて、あれ、と気付いた。
「ん?今、戦艦と言ったかしら?」
「そうです。そこです。あの数の客船と漁船と貨物船を扱える規模にも驚きですが、軍港にも発言力があるようなのです。ただそれは、上から命じるのではなく、お互いに都合を付けられないかと、申し出るものでした。互いに敬意を払い、尊重し合っている様子を見て、命令系統の外に居ても、影響力は持っているのだと、確信したのです」
商人が、軍に、しかも、北海を守る軍に影響力を持つとは。
理解し切れていないと強く感じながら、カタリナは額を押さえた。
「ちょっと待って。公賓として迎えなくてもいいの?」
「繰り返しますが、彼は商人です。現時点で、我が国とは、取引すらないのですから、今のところは、あまり公にはしない方が良いかと存じますよ」
「申し訳ないけれど、私の手に余るようよ…」
「いいえ、こちらこそ、申し訳ありません。ただ、とにかく、一介の商人を、いきなり陛下の許へはお連れできませんでしたのでね、いずれの殿下かと考えまして、まあその、私としては、無難な選択に…」
カタリナは呻いた。
「まあ、そうね。王女ならば逃げ道が多い。いいわ。お父様にご紹介できる糸口を探してみましょう」
「よろしくお願いします。弟君は、商人ではなく、職人ですが、お身内ですので、その…」
「分かったわ、それなりの配慮を。一応、確認だけれど、何か脅されていたりはしないのよね」
「もちろん、もちろん!そのような方ではありませんし、ご兄弟ともに、気持ちの良い青年です。ただ、兄君には、お気を付けください。とにかく…商人として、只者ではないのです」
サブリの商人としての手腕は知らなくても、貴族としての手腕は知っている。
その彼に、ここまで言わせるのだから、せめて自分は、王家の、国の、弱みとなってはならない。
カタリナは気を引き締めて、視線を上げた。
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