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「ねえ、覚えてる?」
これは僕らだけにしか、解けないゲーム。
「海に行ったとき、岩場で君が足を切って、大騒ぎで病院に行ったら消毒だけで帰されて」
「あれは、あなたが悪いのよ。血液の中でフジツボが繁殖するなんて言うから」
「そんな都市伝説があったなあ。おそらく君の怯える顔が、可愛かったんだ」
「与太話を本気にするほどバカだったのね、私」
水着にシャツを羽織って、泣きべその君を思い出す。今度は君が言う。
「覚えてるかしら。あなたと初めて会ったのは、大学に入って一番最初の講義だったのよ。あなたは断りもしないで、隣の席に座ったの」
「本当はね、違うんだよ。合格発表の日にひとりで掲示板を見て、涙ぐんでいる君を、落ちたんだと同情して見てたんだ。そうしたら、入学式に出席してた」
「いやだ、はじめて聞いたわ」
「一目惚れだったんだなあ。君の白いコートまで覚えてるよ」
もう、この部屋から出ることは二度とない。僕らはふたりきりの時間を、お互いで埋めることを選んだ。
一週間前、酷く切迫したニュースが世界を終わらせた。もしかすると科学者たちは、もっと前からその可能性を検討し、何度も何度も計算を繰り返していたのかも知れない。
地球に向かって、小惑星が落ちてくる。それは恐竜を絶滅させたと言われるものよりも巨大で、現在の地球の科学では防ぐことはできない。衝突すれば大津波と大陸規模の火災、そして地底からの硫黄の流出で地上が覆われる。その後太陽の熱は遮られて、氷河期が訪れる。
つまり地球上の生物の八十パーセント以上が死滅するのだ。
そのニュースを最後に、報道は一切入らなくなった。残った画面に流れるのは、どこかの公園の定点カメラと美しい音楽だけ。わずかにインターネットの情報だけが生き残り、SNSでは不確かな情報と嘘と悲しみが溢れだす。
世界に誇る日本の防衛力は、神に対しては無力なわけだ。おそらく政府高官たちは、自分だけは助かろうと地下に逃げた。SNSに拠ると、国会議事堂前の地下鉄の出入り口が厳重に閉められているらしい。地下に籠って僅かな食料と薄い空気の中、本当に生き残れると思っているのか。僕らはそんな政治家たちに、この国の未来を託そうとしていたのだ。
まだ実感の感じられなかった何日間か、僕らは何とか助かる方法を探そうと、あちらこちらの情報を漁ったが、日本のサイトも海外のサイトもまるで役に立たなかった。逃れるすべはなく生物は絶滅する。認めたいわけではなくとも、これが真実だ。
外では暴動と殺戮がはじまり、僕らが住む高層マンションの植込みには、飛び降りた人の骸が転がっている。道路は大変な勢いで自動車とオートバイが走っており、カーブには曲がり切れなかった車が刺さっている。狂った人間がさまよい歩き、何者かに占拠された公共放送のスピーカーからは、今更意味を持たない言葉が大音量で流れている。正常な状態ならば犯罪行為である店舗からの持ち去りや、強制的な性行為、殺人までもが野放しになり、欲求と欲望のすべてが爆発的に解放されると、人間は獣よりも百倍残酷で猟奇的だった。
それでも何かの手立てを探そうと外に出ようとする僕の袖を、君は引いた。
「私も一緒に連れて行って」
「駄目だ、危ないから鍵をしっかり閉めて、ここに隠れていて」
「では、あなたも行かないで。一秒でも長く一緒にいましょう」
君は僕の腕を掴んだまま、離さなかった。
「今までずっと、すれ違いだったのよ。これ以上離れないで」
僕らは互いにとても多忙で、顔を合わせるのは週に何度かしかなかった。お互いの寝顔を確認して、それが共棲みの証だった。
「辞めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで。神父様はそうおっしゃったわ。一緒にいましょう」
君はけして捨て鉢になっているわけではなく、僕より早く運命を受け入れていただけだった。
「ねえ、覚えてる? この指輪をデザインしてもらったとき、デザイナーさんがとても綺麗な人で」
「そうだっけ? 君が途中で膨れたのは覚えてる」
「あなたがデザイナーさんばかり見て、肝心のデザイン画を見ていなかったからよ。都合の悪いところだけ忘れるのね」
「君が会社のイケメンに言い寄られたことなら、覚えてるさ」
「あれ、話を大きく言ってしまったかも。彼も今では妻帯者よ」
五年目の結婚記念日にと買ってあったワインを開け、僕らは陽気に話を続ける。
「忘れてるかな。日帰りで温泉にいったとき、脱衣場は男女別なのに、入ってみたら混浴で」
「忘れないわ。お風呂に入ろうと引き戸を開けたら、裸のあなたが慌てて私を脱衣場に押し戻したの」
ゲームは長く続き、僕らは互いの中にどれほど自分が残っているか確認しながら時間を過ごした。
予定の時間はもう、三時間を切っている。心なしか空気が薄い。どの服を着た君が一番好きだったか、僕はクローゼットの扉を開ける。君もまた、僕のシャツを改めている。選んだ服を交換して、僕らは最後の着替えをする。
「お化粧してくるわ」
君のその言葉を合図に、僕は最後のワインに白い粉を溶いた。せめて、抱き合って眠ろう。僕らが最後の数日に、どれくらい幸福な日を過ごしたのか、ちゃんと知って眠ろう。
世界で一番素敵な君が洗面所から出てくると、僕らはソファに並んで座った。神に誓った言葉は、死がふたりを分かつまでだった。
死はふたりを分かたない。死がふたりをひとつにするんだ。
僕らはとっておきのワインで乾杯し、寄り添って目を閉じる。
「幸福だったね」
「幸福だったね」
とても遠い空から、何かが聞こえた気がした、
fin.
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