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いつかは終わる日々に
エンジンの試運転音に耳を傾けながら、碧は駐機場の見える草地に寝転がっていた。
気配を感じて横を見る。あの黒猫だった。じっと金の瞳を凝らして碧を見つめている。
不意に回れ右をしてどこかに行ってしまう。
ここ数日、見ることのできなかった青い空が広がっていた。
新聞を広げる。
「大東亜の平和守る、嗚呼堂々の日独空中艦隊」「天かける絆、日独空の乙女たち、凱歌を挙ぐ」「たちまち火の海! 自由主義匪賊の塒を爆砕の快挙!」
大見出しと共に内容の無い派手な言葉が踊っている。
昨日の爆撃は大成功ということになっていた。本当のことを知っているのは、おそらく敵だけだろう。ドイツのアルバトロスを使った電波警戒機潰しはうまくいった。今後、本格的に取り入れる必要がある。
紫苑が歩いてきた。起きあがる。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ。あ、なんかあなたに勲章くれるってよ。武功章。おめでとう。部隊は感状を貰ったわ」
乗員を脱出させて操縦した勇敢な行為及び、地対空誘導弾の詰まった倉庫を吹き飛ばした戦果に対してだという。
碧の黒龍は全損、廃棄処分が決定したが、脱出した乗員は無事帰還した。ナコンパノムの基地で再会した時は全身から力が抜ける思いがした。
護衛のドイツ女子パイロットたちは、実にドイツ人らしい実直さで、当然のことをしたまでだ、という見事な態度をとって、パキスタンに帰っていった。次回作戦での再会を約して。
だが、万事めでたしではない。碧の誕生会では一人空席だった。
藍は助からなかった。病院に後送され、一昼夜後に息を引き取った。地上に着いたのはわかったらしい。もう賑やかなあの面子の3人組を見ることは永久に無い、と思うと碧はなんともいえない寂寥感に襲われた。直率の機体を失うことには慣れたが、自機の空中勤務者を失うのは、はじめてだった。
藍が戦死したのに何が勲章だ。馬鹿馬鹿しいアホらしい。男の子の喜ぶ銀バッヂに興味は無い。
「碧は格好つけしいよ。危なっかしいったらないわ。私がくたばったら代わりに、ここを仕切れるのはあなたくらいしかいないんだから」
藍を助けようと、落ちそうな機体を操縦して、不時着したことは結果的に無駄になってしまった。
だが、藍をたった一人落ちる機体に残すよりは、側についてやれてよかったと思いたい。そうやって自己満足に浸るのは果たして許されるのだろうか? 同時にいつまでも、自分の責任だと自己憐憫に浸るのは許されるのだろうか?
藍の出身はどこの国だろうか、とふと考える。靖国へ行くと言うが、大半の子は靖国の桜も見たことがない。
日本さえ行ったこともなく知らない。
死して大東亜を守る英霊になったというより、二度と自分自身が脅かされることのない楽園に行ったと思うべきか。とりとめのない思考が浮いては消えていく。
「淋しくなるわね」
「また新しい子たちがきますよ」
「何それ。ひどい慰め方。非道いヤツね」
「はい」
そう、私は非道いヤツなのだ。
碧は空を見上げた。
「確かに、この世にいらない子はつきないから補充に困ることはないわ。にしても、誰がいらないって決めるのかしらね」
少し泣き声だった。紫苑が泣いているところを見るのは失礼だし、何より見たく無い。この泣き虫め、と心の中で呟く。
「グズグズとメソメソは禁止ですよ」
懐かしい空軍女子士官学校の標語の一つだった。
「アメ公の新聞。鹵獲したものが回ってきたの。匪賊の地雷処理部隊に女の子の部隊があってね。あっという間にどんどん死んで行くらしいわ。それで、アメ公の記者に『結婚して。でも、あなたは、すぐに寡男になっちゃうわ』ってからかうんだってさ。大した連中ね。こんなところに仲間がいた」
「仲間ですか、おかしいですね」
「そうよ。敵だけど仲間。矛盾しないわ」
試運転中の黒龍のエンジン音が轟いている。しばらく無言のまま、エンジンの合奏を聞く。
「なんですか」
「別に」
紫苑は何か言いたそうな顔をしている。おねだりの顔だ、と碧はピンときた。
「どうぞ」
碧は膝を指し示した。
「いいの?」
「ええ、御遠慮なさらずに」
碧の膝に頭を乗せる紫苑。
「ああ、いいわ。寝心地がいい」
至福の表情を浮かべて目を閉じる。慣れない猫が膝に上ってきてくれたようで少し嬉しかった。碧にとっても心地のいい重みだった。
「ね、このまま、顔をあげたらキスできちゃいそう。してやろうかな」
「構いませんよ」
余裕は無いが余裕たっぷりに言う。
碧は紫苑の瞳を覗き込む。なんという綺麗な瞳をしているのだろう。
「しない。無抵抗はつまらん」
頭を横にする紫苑。縛っている長い黒髪に触れたい衝動を抑えた。
「ねえ、そう言えば、あなたの機の綺麗な子いたじゃない」
「ああ、雪ですか?」
着地させるまで一緒に操縦した雪も、武功章こそ貰えなかったが、これで、いよいよ機長に昇進かもしれない。正直、手元においておきたかった。
「そうそう、雪。あの子さあ、ひょっとして……」
「はぁ」
「いや、気づかない?」
「あまり好かれていないのですかね。いやに絡むのですよ。早く私から離れて機長になりたいんじゃ……」
たまには人間関係の話でも紫苑に持ち込むか。彼女の気が紛れるならどんな話でもいい。
「駄目だ。さぁーっぱり、わかっとらん」
紫苑はカラカラと笑った。
「ね、もし……」
「はい?」
「この戦争が終わって、それでも靖国に行かなかったらどうする? 満州は寒いし、東京は辛気臭いしで嫌だわ」
もし、の話ばっかりとは。
今日の紫苑はえらく弱気だった。あまりよくない傾向だと碧は思った。
「そうですね」
だが、たしかに考えておかなければならない時期かもしれなかった。
先日の旧正月の攻勢は、軍事的には明らかに失敗で、政治的にも失敗の部類に入るが、宣伝としては大成功だった。攻勢は確かに叩き潰された。ゲリラは根こそぎ殲滅され、首都のゲリラ支援の市民も逮捕された。彼らには拷問と死刑が待っている。
だが、越南解放軍は、実に有効に宣伝した。もはや、アジアの盟主たる大日本帝国は傀儡越南帝国を守る力無し、市民を弾圧する傀儡越南帝国に統治の資格無し、と。米国の広告代理店が何枚も噛んだ報道は世界中に配信され、日本でも反戦運動がさらに盛り上がり、政党からも、こんな「シベリア出兵」からはさっさと手を引くべきという意見が出始めていた。潮目は変わりつつあった。
この国は衰亡するだろう・・・・・・確信に近い予感を碧は抱いた。
太陽は傾き、影は濃くなるだろう。この国は人々が共に戦い歩み続けながら、あらゆる人々を踏み躙り捧げ、繁栄を手にし帝国を築き上げたように、またあらゆる人々を踏み付けにし己のみは取り残されまいとしがみつく人々を振り落としながら、衰亡の坂を転がり落ちていくことに何の不思議があろうか。
「御結婚なさるとか?」
「ばか。真っ平御免よ」
むくれる紫苑。
「御心配なく、ちゃんと考えてありますから」
「へえ」
「私たちは、地方人に戻ってもなかなか身の置き所が無いと思います。というわけで、どこか南洋の小さな島でも買って、そこで浜茶屋でもやろうかと」
「私が経営者ね。あなたは店長。一人残らず連れて行く」
「そんな感じです」
「いいわね。浜茶屋でも本格的なのにしましょうよ。観光ホテルがいいわ。地中海沿岸風。入江でイルカを飼いたいわ」
「たいへんによろしい考えだと思いますよ」
「でしょう」
紫苑が、碧の膝の上で無邪気に微笑む。
「私たちは」
雲を眺める。
「戦い続けて、それから、生き残って、人々の批難を浴びながら、いけしゃあしゃあと図々しく、ふんぞりかえって、いつまでも幸せに暮らすのです。老婆になってこの世から消えるまで」
「素敵ね。最期までみんな一緒。誰も一人になんかしない」
静かに、聞こえるか聞こえないかくらいの声で囁く紫苑。
「ええ、そういたしましょう。私たちで」
雲を抜け、黒龍の巨体は飛翔する。碧は、隣の雪の顔をちらりと覗く。いつもと変わらない美しい横顔。杏も茜も山吹も、それぞれの仕事をこなしている。新しい射手の補充もきた。うまく若葉や浅黄と一緒にやれるだろうか、また賑やかな三人組になってくれればいい、などと考える。
機内に伝わる鼓動のようなエンジン音。それは自分たちの心音だ、と碧は、いつも感じる。黒龍が編隊を組む。
みなで操り、みなで飛ぶ。
これにまさる幸せは無い。
桜咲く麗しき靖国よりも、遥か彼方の美しき南の島よりも、生きて天上にあるこの一瞬こそ、楽園だ。
私が私で、私たちが私たちになれる、私たちの空。
楽園を獲得する翼を与えてくれた大日本帝国には、感謝せねばならない。
しかし。
終わらない平和とおなじように終わらない戦争はない。いつかは終わる。そして、生き残れば、その責を負わねばならない。
それでも、記憶は昆虫を閉じ込めた琥珀のように生き残った者たちの心に残るだろう。恐れることはない。翼は戦う者たちの心から決して取り上げられることはない。
遙か眼下に雲が流れていく。
そういえば、来月は紫苑の誕生日だ。みんなで、とっておきのプレゼントと、びっくりするくらい派手な誕生会をしてやろう。
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