第1001飛行女子戦隊

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 吹き抜けの渡り廊下を歩く碧。白い光が灰色の雲から斜めに差している。今日は空中勤務者の外出も許可されていた。この様子だと数日出撃はないはずだった。 爆撃は、空軍から海軍、同盟国軍など様々な部隊に手柄をたてる機会を与えてやるため、持ちまわりになり、結果的にローテーションが組まれているような状況になっていた。  ラケット音が甲高く響いている。元気な者は、早速、庭球を楽しんでいた。美しいよい発音のドイツ語が流れてくる。「」ドイツ詩愛好会が詩を朗読している。  建物はまるで迷宮のようだった。いくつもの部屋が無限に連なっているように見える。子供の頃、一人で鏡と鏡を写して遊んだときに見た光景のようで、なんとなく落ち着かない。 宿舎として使われている建物は別の一棟にあり、ここはがら空きの部屋が多い。  部屋から笑い声が聞こえてくる。碧が、ちらりと覗くと数人が針仕事に精を出していた。たくさんの小さな縫いぐるみが作られている。操縦室にぶら下げる自分たち用のマスコットと、爆弾倉に収めてばら撒くためのものだった。中に爆弾を仕込んでおくというような低次元なことは考えてもいない。純粋な贈り物だった。他にも薬や菓子を撒くこともある。捨てられる可能性の方が高いが、爆撃を運良く生き延びた子供にとってはプレゼントになると本気で考えていた。  両親や腕や脚を吹き飛ばしておきながら、その手で子供たちに縫いぐるみや菓子、薬を贈る。しかも、誰も矛盾などを感じていない。一種の美談として報道されることもあった。反体制的なメディアからは逆に虐殺を隠している、自己満足的な偽善だ、と批判の嵐が吹き荒れた。そして大方の日本国民も一種の皮肉っぽいグロテスクと感じていた。時として奪い、時として与える。 そういう立場にいるのだから、どうこう言われても碧はピンとこなかった。おそらく本来ならあるべき心の奥底にある人間としての何かが麻痺しているのだろう。今度、撒くための縫いぐるみを少し貰いに行こうと考えた。  中庭に出る。光がまぶしい。中庭には大理石の噴水が盛大に水を噴き上げていた。  噴水の影に時々見かける黒猫がいた。どこかで飼われているのだろう。ひどく色艶のいい毛並みをしていた。まだ子猫の面影が抜けておらず、顔も愛くるしい。紫苑の愛人たちをなんとなく連想させる。碧は腰を屈めて、そうっと手を差し伸べた。黒猫は少し興味を持ったらしく、首を延ばして碧の指先を嗅ぐ。碧が首筋に触れようとすると、さっと身を翻して駆け出していく。  何かオヤツでもやれば、くるかしら。 手なずけてみたいような気がする。しかし、たとえ触ることを許すようになっても、おそらく猫という生き物は手なずけられない。猫のほうでは人を何とも思っておらず、餌を運ぶ何かにしか見えていないのではないだろうか。  碧は何気なく中庭の隅に目をやった。苔むした小さなマリア像に誰かが手を合わせている。こんなところにキリスト像があるのが不思議だった。拝む対象にしてはぞんざいに扱われ過ぎている。遙か昔の征服者であるオランダ人が持ち込み、何代も前の持ち主が変わった像、装飾として庭に置いたのだろう。 手を合わせている者は、碧の機に搭乗する爆撃手兼第2航法士の杏だった。 「何をお祈りしているの」 「朝のお祈りです」  ふわっと笑う杏。 「何か御利益があるのかしら」  杏は親に教会に棄てられたという。その教会も似非牧師が子供たちを重労働させる、ろくでもない教会で、そこで育った杏は娼館に売り飛ばされた。前に杏について噂を耳にしたことがある。日本軍の飛行機を天使だと思って娼館を抜け出して追いかけたら、小さな駐屯地につき、その足で志願したのだという。神の導き、と信じているようだった。 「主には自身の利益を求めるものではありません。常に感謝あるのみです」  小柄な、どちらかと言えば風采の上がらない娘が、なんとなく神々しく見えるから不思議だった。 「それでは、爆撃が効果を発揮するように祈るのはどう?」  「たいへん結構なことです。命中して、敵が苦しまず天国へ召されるよう、お祈りしておきます」  なんと心の優しい娘だろうか、碧はやや皮肉めいた感情と共に思った。  天使という生き物は人を助けて守護するより、地上を焼き払う方が向いている。そう、我々のように。  休日を思い思いに過ごす隊員たちを後目に、碧は基地へと出勤した。早速、書類仕事に取り組む。タイプのキーを叩く。パチパチというタイプ音が事務室に響く。何人かの機長が、部屋を訪れて報告書を提出していく。すぐに時間がたつ。 「いる?」  紫苑が顔を出した。 「おや、どういう風の吹き回しですか」 「たまには、仕事しなきゃと思ったわけ」  たいてい、遊びに行ってしまう紫苑にしては珍しかった。  「さっき、整備部隊を見てきたところ。大変そうよ。エンジンが止まってしまった機が多いから」 「いつも苦労をかけています」 「そうね」  差し入れでもして、何か不足しているものがあれば申し出るように言ってきたのだろう。 「さて、私も仕事するかな」 「お願いします」  碧が頼んだ整備関係の書類を、一時間くらいで終わらせると、紫苑は何かリストのようなものをチェックしはじめた。あんな書類はあったのだろうか、と碧は興味を持ち、覗いてみる。名簿だった。 「何の書類です?」 「飛行女子第1001戦隊の軍機。重要書類。許可無き者は閲覧を禁ず」  紫苑が、ふざけて言っているのはわかったが、思い当たる書類はない。 「誕生日帳よ」  紫苑は、飛行戦隊の全員に誕生日プレゼントを贈っていた。決して豪華ではないが、見合うものだった。無論、正規の仕事ではなく、紫苑が勝手にはじめたことだった。部下の歓心を買うというような下品な了見や、団結を誇示するという欺瞞は一ミクロンたりともない。何の目的もない。単純に、やりたいからやっているだけだった。しかし世間では余計者として、望んで飛び込んだとはい、戦場では消耗品としての扱いを余儀なくされる飛行女子第1001戦隊の一人一人が、誕生日を祝ってもらえるということにどれだけ勇気づけられるか。おそらく紫苑自身も気付いていないのだろう。
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