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「お帰りなさい、隊長!」
カンドルの窟に着き、自分の部屋に入った途端、にこやかに現れたのがカンドル隊の料理番兼ライカの付き人である奈美だ。彼女はこの世界に来てからひと月が経つが、何とかたくましく生きている。
「お城はどうでした? 王様に会ってきたんでしょ? お疲れですよね。まーとりあえず座ってお茶でも飲んで」
奈美はライカの長羽織を脱がせながらそう言うと、ライカを椅子に座らせ、腰に提げていた剣を壁に掛けた。最後にライカの前に熱々の茶を淹れた湯のみを置くと、自分も向かいの椅子に腰かけた。
「……これは何だ?」
ライカは気味が悪そうに奈美を見た。確か城に出かける前までは、「わざわざ部屋に食事を持ってこさせないでよね。いいかげん食堂に食べに来なさいよ」といつも通り、ぶつぶつ文句を言っていたはずなのだが。短時間でこの変わり様は不可解すぎる。
「あっ、お茶はぬるめの方が良かったですか?」
「違う! おまえのこの理解に苦しむ言動は、何のつもりだと聞いている!」
「わあ、そんな言い草はないんじゃないですか? 付き人として自分の仕事をしているまでです!」
(──嘘をつけ、嘘を。付き人である自覚も、そうないだろうが)
ライカは前に座る奈美を見据えて考えた。この女が突然こんなことを仕出かす理由は──。
「何か話があるんだな? ……頼み事か」
奈美はあからさまに肩をビクッとさせた。愛想笑いに限界がきているのか、ひくついている。
「話くらいなら聞いてやる。頼まれてやるかはそれから決める」
「あはは……何かもお見通しってワケね」
奈美はいつもの屈託ない顔で笑うと、ぼそぼそと話し始めた。
「ええとね……私、この世界にいきなり来ちゃったし、分からないことがたくさんあるの。読み書きもそのひとつ。この世界で使われてる文字がさっぱり分からないのよ。元いた世界では見たことないし。だから誰かに教えてもらおうと思って、ダンチョウさんにお願いしてみたんだけど──ほら、テスとか他のみんなは読み書きできるのか謎だったし、あなたは隊長だからこんなこと頼むのもあれかなと思って」
建前上そう言ったが、奈美がまず初めにライカではなくダンチョウに頼みに行ったのは、ダンチョウがカンドル隊の中で一番博識で賢そうだと思ったからだ。とは、ライカの前ではとても言えないが。
「ダンチョウさんに断られちゃったの。『私よりもライカどのの方が適任です』って。でも、そんなはずないわよねぇ? 読み書き教えるのは、絶対ダンチョウさんの方が上手だと思うんだけどなぁ……あ、もしかして面倒くさいからテキトーにあしらわれたのかな」
「……おまえな……俺に頼みに来たんじゃなかったのか?」
心の声をうっかり口走らせている奈美を見て、ライカが呆れたようにため息をつく。それに気づいて、奈美が慌てて誤魔化しにかかる。
「あっ違うのよ!? ダンチョウさんがあなたを薦めるなら、きっとあなたに習うのが得策なのよね!? 今のは聞かなかったことにして! ってことでお願い! 私に文字の読み書き教えて!」
(……まったくこの女は。人を馬鹿にしに来たのか?)
ライカはため息をつくと、両手を合わせて懇願している奈美に訊ねた。
「そもそも、文字を覚えてどうするんだ?」
「え? どうするって……。読み書き出来なかったら不便でしょ? 誰かに思ってることも伝えられないし、この世界の本もいろいろ読んでみたいし……。生きていく上で読み書きは基本でしょ」
「言っておくが、この景ノ国では読み書きのできる者の方が少ないぞ」
「……え!? 何で!?」
「文字を扱うのが身分の高い者や商人、学士、神官くらいだからな……あとは、都に暮らす物好きか」
一か月前まで居た元の世界では読み書きできるのが当たり前だと思っていたが、この世界ではその当たり前が通用しないことを奈美は思い出した。選ばれた者だけが用いる文字だというのに、カンドルの窟で料理ばかり作っている自分には必要ないと思われても仕方がない。
奈美が諦めかけたそのとき、ライカが口を開いた。
「仕方がない。読み書きの指南、俺が引き受けてやる」
「……え?」
奈美が驚いて、ライカの顔を見た。
「い、いいの?」
「ああ。ただし、交換条件だ」
「交換条件? な、何……?」
この男が交換条件を持ち出してくるとは、一体どんな無理難題を奈美に吹っ掛けてくるのか分かったものではない。奈美が固唾をのんで待っていると、ライカが言った。
「おまえのその躰……俺が貰い受けるぞ」
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