再開。

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再開。

「俺の事、覚えてますか?」  その声は突然だった。  私は目を見開いて、その声の主をしっかりと瞳に捕らえた。 「………えっと、」  深緑色のブレザー。同じ色のズボン。この近くの高校の制服だった。高校生に知り合いが居ただろうか…?  風に揺れる黒い髪。同じ色の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。笑わせようとして失敗した口元。走ってきたのか、少し息が上がって、肩が上下している。肩にかけたバッグのヒモを力強く握る手は微かに震えていた。 「……ごめんなさい。何処かで……お会いしましたか?」  私達の間に訪れた沈黙に、聞き慣れた商店街の活気が耳を打つ。へい、らっしゃい。なんてアニメみたいな掛け声で客寄せをする八百屋さん。何処かのお店の扉がカランとベルを鳴らして、ありがとうございましたーと言う声が漏れた。彼の後ろで、何人もの人々が行き交う。右に左に、流れていく。学生、主婦、サラリーマンも。どうやら、時は止まっていないらしい。でも目の前の彼は、未だに静止していた。 「………ごめんなさい……」  自分の耳にもやっと届く程のか細い声でもう一度。私達の間にある距離を、彼は詰めようとはしない。私も離れようとはしなかった。私と彼との的確なパーソナルスペース。目の前の彼は、こんなにも人との距離間を理解している。それなのに、冒頭の言葉が不思議だった。それは、距離を詰めようとする言葉に他ならない。 「………あ、えっと、……そうですよね。まさか、覚えてるわけ、無いですよね……」  彼が三年生であったとしても、私とは六歳は離れている。接点など無いだろう。そもそも私は地元の人間ではない。大学院に進学し、この土地にまだ縁があるだけで、地元は飛行機を使う程に離れていた。  記憶を何度も巡らせ、様々な可能性の中に彼の姿を探したが、やはり、その何処にも彼の姿は見付けられなかった。  明らかに落胆と哀しみの色を携えた瞳を長い睫で伏せ、しかし次に私を見た時には、そこに再び微かな希望の光を宿していた。 「初めまして。……突然で、すみません。ずっと、貴女が好きでした」 「えっ」  息を飲んだ。 「トモダチからで構いません。俺と、縁を結んで下さい」  彼はそう言って、その腕を斜め下にーー丁度私達の距離の中間地点に下ろした。  握手……?  期待と不安の入り交じった目は、そのどちらとも付かない別の光を灯していた。この手を握ってもいいものなのだろうか。私は少し思案した。カラン、いらっしゃいませーと何処かで聞こえる。そんな風に、彼の心を招き入れてもいいものなのだろうか? 「……名前を、教えて貰っても…?」 「篝静夜(かがりせいや)」 「……私は、井内伊代(いのうちいよ)」  変な話だが、自己紹介をすれば手を握ることに大きな抵抗は無くなる。親睦を深める為の一連の動作になるからかも知れない。  握り締めた手を握り返されるその力は、強くて、優しい。確かな男の人の手の感触に、どきりとしてしまった。  なんの変哲も無い、いつもの変わらない日常。  そんな日々の中、まるで落とし穴に落ちるみたいに、彼と出会った。  アールグレイとダージリンとどちらを淹れようかなと迷って彼に訊けば、「それ、どんな違いがあるんですか」と笑うような声が返ってくる。  ええっとね、とティーパックの入ったパッケージを裏返す。 「ダージリンはインドのダージリン地方で栽培された茶葉を使用して作られた紅茶のことで、アールグレイは紅茶の葉に柑橘系の香りを付けたフレーバードティー。らしいよ」 「『らしいよ』って、貴女も理解して無いんじゃないですか」  愉快そうに笑うその声は、すっかり、私を幸せにする為に必要な音になっていた。 「アールグレイはリラックス効果があるよ。消化器官に作用するらしいし、喉の調子を整えたりする。ダージリンは、タンニンが豊富で肌の調子を整えてくれたり、消化を助けてくれたり…」  つまりどっちも体にいい!と締め括ると、やっぱり彼は笑った。二人がけのソファーからカウンターキッチンを振り返り、微笑むような顔をして「貴女の好きな方を」と言う。  不覚にも、どきりとしてしまう。  彼は高校二年生だった。  十六歳。ーーー私と、八つも歳が離れていた。  けれど不思議と、彼はそんな歳の差など感じさせない。一見、年相応の顔立ちをしているのに、大人びた顔で笑うのだ。特に私に合わせて背伸びしているという風でもない。背伸びって言うのはそう言う意味ではないけれど、実際にも背伸びしなくても、彼の身長の方が私の背丈よりも少し高い。そのせいもあるのだろう。  それから、彼は私の事を「貴女」と言う。  アールグレイのほんのりと柑橘を思わせる香りが鼻腔を擽る。彼は、コーヒーを好まなかった。  そりゃ、高校生だし。そんなものかな?  それは少しだけ意外だった。でも別に、彼がその口で「嫌い」と言ったわけではない。初めてこの部屋を訪れてくれた時、つい、友人が来た時と同じようにコーヒーを用意してしまった。彼がそれを一口飲んだ時に、私はその事に気が付いた。いつもとは少しだけ、笑う口元が歪んでいたから、あっコーヒー苦手だったんだな、と自分の失態にやっと気が付いた。高校生だもの。お茶とかジュースの方が良かったのかも。  それも今日は忘れていて、家にはいつものようにコーヒーか紅茶しかなかったので、今日は紅茶を淹れることにした。 「お待たせ。どうぞ」  ありがとうございます、と受け取って、口を付ける。カップを傾けてローテーブルの上に置くまでにそれ程の時間を要さなかった。けれどどうやら、嫌いではないらしい。心の中でほっと胸を撫で下ろす。  開けっぱなしにしていた窓から初夏の風が吹き、薄いレースのカーテンを揺らす。それに導かれたわけではないけれど、私は彼の隣に腰掛けた。 「毎週来てるけど。友達と遊んだりしなくていいの?」 「友達なんていませんよ。貴女しか」 「嘘ばっかり」  嘘、と指摘してみたけれど、どうだろう。確かに彼は、高校生と言うには大人過ぎるような気もした。馴染めてないというならば、本当かもしれない。でも、彼はとても器用だったので、やっぱり友人がいないなんてのは嘘だと思う。  ローテーブルの正面の、何も映していないテレビが鏡のようになって、横並びに座る私達を映した。テレビの真っ黒な画面越しに彼と目が合い、慌てて自分の分のマグカップに口を付ける。「テレビ付ける?」誤魔化して出した声は、少しだけ上擦っていた。 「なんか面白いのやってるんですか?」 「さぁ?あ、録画したやつあるよ。金曜ロードショーは毎週録画してる!なんか、見逃したのとかない?」 「……俺、あんまりテレビも映画も観ないんで…」 「そうなの?」  じゃあ、とテレビを点けた。沈黙が怖かったわけではない。彼の、暗く沈みかけた表情が気になったから。苦笑で誤魔化したつもりだろうけど、私は誤魔化されないよ? 「じゃあさ、昨日のやつ、観た?あれ、私、好きなの。一緒に観よう!」  努めて明るい声で呼び掛けた。  私は、彼のことをよく知らない。  こんな時に、思い知る。  彼が私に声をかけてくれてから二ヶ月が過ぎた。ここ最近、彼は毎週土曜日に、私の住むアパートにやって来る。  けれど、私は彼の名前と高校名、それから、年齢。ーーーくらいしか、未だに知らない。彼はあまり、自分の話をすることを好まなかった。……私のことは、色々と訊いてくるくせに。  なので、私はより敏感に彼の表情の変化を観察する。だからこそ、コーヒーが苦手なことやテレビや映画に疎いことが何と無くネガティブな思考に結び付いていることを敏感に感じ取ることが出来た。自分で自分を褒めてあげたい。  土曜日に訪れるようになったのも、そう。  出会った日から、他愛ない連絡のやり取りを重ねてはいたものの、家に招き入れる程の距離感にはなかったのに。 『今から、会いに行ってもいいですか……?』  その日、珍しくかかってきた彼からの電話は、まるで捨てられた仔犬のように何処か頼り無く、少しだけ語尾が震えていた。 『いいよ。おいで』  壁にかかった時計を見た。もうすぐ夜の十一時になる。こんな時間だから、とか、親御さんには、とか。或いは、言わなくてはいけない沢山の常識(ことば)があったのかもしれない。でも私は、力強く二つ返事で受け入れた。  位置情報を送信し、目印になるような近所の情報を電話で伝えた。アパート名と部屋番号も。 『私も近所まで出るよ。北から来る?それとも、南?』 『いえ。夜なんで。貴女は部屋で待ってて下さい。絶対、外に出ないで。危ないですから』  その言葉で、私は彼を“異性”として見たことがなかったが、彼は確かに私を“女性”として見ていたのだな、と改めて知った。……告白されていたことも、その時にやっと思い出したと言ったら……君は怒るだろうか?  兎に角、彼はその、泣き出しそうな顔をしてインターフォンを押してきた晩も、遂にその理由を告げることはなかった。  24インチの小さなテレビ画面では、ボーイミーツガールであるこの映画の伏線としてとても重要な場面が映し出されていた。そっと、彼の横顔を盗み見る。黒の瞳の奥が、テレビの光に反射して青く光っている。物憂げな表情が、なんだか絵になった。  知らず、溜息が零れてしまう。  出会った時にも思ったが、彼はなかなか、顔面の偏差値が高め(イケメン)だった。  年下の、こんな素敵な男の子に懐かれて、正直悪い気はしない。  それは誰だってそうだろう。女子は皆、そんな運命的な出会いやラッキーな出来事に想いを馳せては妄想を豊かにする。私は、あまり色恋沙汰に明るくはないが、例に漏れると言うわけでもなかった。 (……捨て犬を拾った気分だったけど……。今では、)  彼は確かに、庇護欲を掻き立てるような雰囲気を持っていた。しかしそれを味方につけたあざとさで私につけこんだりはしなかった。そんなところに、好感を持った。 「………先輩。あんまり、見ないで下さい……」 「あっ!ご、ごめん!」  慌てて目を背ければ、テレビは丁度CMに入っていた。……ん? 「『先輩』?」  再び彼に視線をやれば、彼は「しまった」という表情を浮かべて固まっていた。 「『先輩』って?」  再び、訊く。前のめりに覗き込んだ目は、窓の方へ背けられて全然視線が合わない。あー、とか、えー、とか、意味のない音を発している。 「何?浮気?」 「なっ!ばっ!う、浮気って……!」  私から言い出したくせに、“俺達、別に付き合ってないじゃないですか”なんて言われるのが怖くなって、慌ててこちらを振り返った彼に、「まぁ。私達、別に付き合ってないしね」と自分で先手を打った。今度は私の方が視線をそっぽ向かせる。 「………」  だから、彼がその沈黙の中、どんな表情(かお)をしていたのかはわからない。 「……あの、えっ…と、……伊代、さん」 「……」  初めて呼ばれたような気がする名前は、名字ではなく、下の名前だった。  それをくすぐったく、こそばゆく想ったのに。私は不貞腐れたままの顔で、やっと彼の方を向いた。テレビはもう、CMを終えて本編に入っていたが、音声も映像も、まるで捉えきれない。全神経が、彼に集中した。 「………俺、前世の記憶があるなんて言ったら、貴女は、信じてくれますか?」  彼は神妙な面持ちで、そんなことを言う。  
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