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魔女ー3
時折、青年の顔が頭にちらついた。
魔女が何か言ったり、動いたり、人々に願いを叶えている最中でさえも、魔女のすべてが愛おしいとでもいうように目を細めてそばにいた青年。あの、純粋な心。思い出された。それは例えば、食事をしている時だったり、眠りにつく前だったり、湯浴みをしている時だったり。本を読んでいる時だったり。
誰かと一緒に暮らしたことは初めてだったから。印象に残っているのだろうと魔女は考えた。
青年の姿が浮かぶたび、くだらん。と首を振って頭から消した。
屋上で、魔女は願いを叶え続けていた。
青年がいなくなって、一年が経った。
ある女性が訪ねてきた。
「さ、ぬしの願いはなんじゃ」
いつものように甘く問うた。
女性は、顔を赤らめて言った。
「好きな人がいるんです。どうしようもなく焦がれる人。私はこの人を愛するためだけに生まれてきたんだって感じる人。その人のすべてが欲しいんです。ずっとそばにいたいし、いてほしい……」
「よろしい、ぬしの願いをかなえよう」
想い人の名を。魔女が促すと女性は黙って、一枚の写真を出した。
魔女は頭をなぐられたような衝撃を受けた。写真には、青年が写っていた。
魔女は全身の力を振り絞って、平静を装った。
「よろしい。ぬしの願いをかなえよう」
魔女は杖を振った。女性は躍り上がって屋上を去った。
その夜。ベッドの中で、女性の願いの内容が、何度も頭の中で回った。今まで何万、何十万もの願いを叶えてきた魔女である。どの願いも一瞬で忘れていたが、なぜかあの女性の願いだけは心にひっかかった。
魔女は、写真の中の青年を思い出していた。
『あいつ、ああいうのに好かれるのだな。そういえば自分はけっこう人気者だとぬかしていたが』
魔女は寝返りを打った。くつくつと笑いがこみあげてきた。
『あの男が人間と結ばれるというのは実に興味ぶかいことだ。人気者なら、あのような女は今後、何人も私の場所に訪れるだろうな』
また、寝返りを打った。
『そうしたらあの男の心は、私の杖ひとつで変わるということだ。いろいろな女に心を寄せ……。かつて私にむかった熱情がころころ相手を変えるのだ』
また、寝返りを打った。
いつもはすぐに眠りにつくというのに、どうも意識を失うことができない。
生まれて初めて、眠れないまま一夜があけた。
翌朝、魔女は屋上を人々に開放する前に、ここ数百年まったく使っていなかった戸棚をあけた。埃が宙に舞い、むせ返った。屋上に来た時以来、何百年も使うことがなかったほうきを奥からひっぱりだした。
『あの男が、私の魔法で私以外の人間をどう愛するのか、覗いてみるのもまた一興か』
数百年ぶりに、魔女は屋上から出ようと思ったのだった。
魔女はほうきにまたがり、屋上の古びたコンクリートを蹴って、空に飛び出した。
久しぶりに空を飛ぶというのに、昨日までのっていたかのように軽々と進むことができた。
ビルの10階あたりまで降下した。このくらいまでおりれば、屋上では雲がかかって見えなかった景色も見えるようになる。道を歩く人間も、誰が誰だか見分けがつくようになる。
魔女はビルから離れ、町の空を飛び始めた。
青年は、すぐに見つかった。
写真で見た通り。昔、魔女といた時とまったく変わらない姿をしていた。白いワイシャツに藍色のネクタイ。黒いズボン。整っている黒髪の中に一つだけある、少しはねた寝ぐせ。太陽の光にあたって光る白い肌。高い鼻。息遣い。
見間違えるはずがなかった。魔女は自分でも驚くほど、細かい部分まで青年を覚えていた。
青年の隣を、ぴったりと歩く女がいた。腕をくみ、ネコナデ声で話している。青年を愛していると言ったあの女性だった。
青年の顔が、女性の方に向いた。青年は、女性を盲愛しているようだった。ひたむきだった美しい視線は、まっすぐ女性にむいているのだった。
何回も屋上で見てきた、曇りを知らない眼。美しい黒い瞳が、他のものを映しているのを見た時、魔女はほうきから落ちそうになった。膝が、腕が震えた。息苦しくなった。逃げるように屋上へと飛び帰った。
魔女は心臓の上に、黒くて重い、塊が生まれたことを感じた。屋上に戻った後も、塊は心臓を圧迫し続けた。
どんな病気にもかかったことのない魔女が感じる、初めての苦しみだった。魔女は魔法で塊を取ろうとしたが、塊の正体がどういうものなのか、まったくわからなかった。魔女の目にさえ見えないものだった。正体のわからないものは、魔女にはどうしようもなかった。
その塊は、昼も夜も魔女をむしばんだ。日に日に大きくなっていくようだった。魔女は歯を食いしばって痛みに耐えた。
魔女は不死身だったが、その塊の苦しみは死さえも連想させた。
塊がとうとう心臓をつぶすほどの大きさになったと思った時、魔女はあまりの痛みに目眩を覚えた。くらりと意識が遠のいた。
「大丈夫ですか?」
地面に倒れる直前、魔女を抱きとめたものがあった。
青年だった。
息を切らしていた。青年は屋上まで走ってきたみたいだった。
魔女と目が合うと、青年はにっこりと、幸せそうに目を細めた。
青年は、すべての魔女の魔法が解けていたのだった。
「私の心を操ろうとしたのですか? できませんよ。あなたへの想いは、あなたの魔法すら届かない場所にあるのです」
青年は真実の愛の力とやらで、魔女の魔法を解いたと思っていたが、魔女には、自分のかけた魔法が自分にしか解けないことをわかっていた。
魔女はただ、呆然と青年を見つめていた。
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