12人が本棚に入れています
本棚に追加
魔女ー4
「そういえば」
机を挟んで、向かいに座る青年がふと、言った。
「ビルに住んでいる人たちは、いいですよね」
「なぜだ」
机には、朝食が並んでいる。魔女は、トマトをフォークに突き刺し、口に持っていった。
今日の朝食は、青年が焼いた、ホットケーキ。
トマトとレタスのサラダは、魔女が手ずから用意した。
青年は、ホットケーキのこんがり焼けた表面に白いバターを塗っている。
「あなたが屋上を開く際、自宅からすぐ、誰よりも早く行くことができるじゃないですか。自分の家に、なんでも願いを叶えてくれる人がいるっていうのは素晴らしいですね」
「そうだな」
魔女はトマトをごくりと喉に流しこんだ。
酸っぱさの中にかすかな甘みを感じた。
「だが、私は今まで願いを求める者たちの中に、このビルの住人を見たことがない」
屋上に来て数百年の間、魔女にはそれが不思議だった。願いを求める輩は、いつも遠くから、ビルの周辺に住んでいるものが、訪ねてくる。
魔女はあらゆる人間という人間を知っていたが、なぜか、ビルの中の住人にだけは会ったことがなかった。
「それぞれの階の部屋数も相当なものだろうに、一人ぐらい見そうなものだが」
魔女は、首をかしげた。
青年はバターナイフを机に置いた。
「ビルに住む人たちは、願いが一瞬で叶うということよりも、もっと大切なことがあるのかもしれませんね」
「それはないだろ。誰だって自分の望むものが一瞬で手に入った方が良いに決まっている」
魔女に答えず、青年は、そっとバターの塗り終わったホットケーキを魔女の目の前の皿に置いた。
「さあ、できました。いいかげん食べてくださいよ。とってもおいしいんですよ」
「くどい。他人が作ったものなど食えるか」
青年と会話をしていると、青年は途中でさりげなく魔女の好きなものを聞いてきた。色だったり、動物だったり、……食べ物だったり。
昨日、魔女はそのたくみな話術にのせられ、思わず自分の好物を口に出してしまったのだった。そうしたら青年は、魔女のために好物を作ると言いだした。青年は魔女に、キッチンと材料はありますか? と願った。首を振れば青年はキッチンを借りて作りますと屋上から飛び出さん勢いだったので、魔女はあわてて杖を振り、キッチンとホットケーキの材料を出してやったのだった。青年は魔女に「ありがとうございます」と頭を下げた。
魔女は苦笑した。自分をそんなつまらない小さな願いに使わせて、と。
青年が魔女の元に戻ってきて一週間ほど経っていた。今なら、ほんの気まぐれだが、青年の最初の、本当の願いを聞いてやらんでもなかった。
すなわち、「青年が魔女の心を手に入れる」
青年が戻ってきた時、魔女の心臓の上の塊は跡形もなく消え去った。魔女は自分の病を治してくれた褒美をあげんでもない、という気持ちだった。
だが、青年はもう言わなかった。「あなたの心が欲しい」と。ただ、魔女と一緒にいることを、前と同じように望むだけだった。
魔女にとってはその青年の態度に、言葉にはできない不満のようなものを抱いていた。
せっかくこっちが褒美を与えてやろうというのに……。その気持ちが、細やかな反発を生んでいるのだった。
「ふふふ、残念でしたね」
青年は、くつくつと喉をならした。
「さっきのトマト、トマトにしては甘い味がすると思いませんでしたか」
魔女の顔がさっと青くなった。そういえば。
魔女は立ち上がり、自分が魔法で出したサラダを見つめた。そして……見つけた。サラダの中に、ちらほらとクリーム色の生地のようなものが入っている。
サラダの中に、ホットケーキの細かな切れ端が入っているのだった。
魔女は、青年を凝視した。
「私がサラダを取る時、少しずつ混ぜていたんですよ」
青年は目を細めて愉快そうに笑っている。
断片ののったフォークを魔女の目の前に差し出した。
「さあ一口も二口もおんなじでしょう。私は一時期、あるお菓子の店にいたことがありましてね。味には自信があるんですよ」
ほら。
「これ、あーんってするのわかります? 世間の恋人たちがやるんですよ」
「馬鹿にするな。そのくらいの知識は持っている」
魔女はばくりと大口を開け、ホットケーキの断片を飲み込んだ。
舌でまず感じたのは、なめらかに舌をすべっていくバターの感触と、ホットケーキのふんわりとした感触。
混ざりあい、歯もあてぬうちに溶けていった。
先ほど食べたものと違い、酸っぱさがない、どこまでも甘い、甘い。喉を過ぎてもまだ余韻が残っていた。
トマトが混じっていないからな。だから酸っぱさは感じないのだろう。魔女は思った。
「食えないもんでもない」
ぼそりとつぶやいた言葉を、青年は聞き洩らさなかった。目を細めて、幸せそうに笑った。
「でしょう?」
今日は晴天。からりと澄んだ青空が、朝日の中、魔女と青年を包みこむようだった。
魔女はまた、屋上で青年と暮らし始めた。
最初のコメントを投稿しよう!