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雨音が駅舎の木造屋根を叩く音は、ますます激しくなっている。
本のページを捲りながらも、誠太郎の目は泳ぎっぱなしだった。
風に煽られた雨粒が、誠太郎の履き古した靴と開いた本を濡らしてきて、不快げに本を閉じる。
改めて思考を巡らす気にもなれず、逃げるように駅舎内に視線を彷徨わせた。
貼る物のない掲示板や、黄ばんで読みづらくなっている運行表を通り過ぎて、ふと一箇所に目が留まる。
駅舎の隅の椅子。そこに青白く、痩せ細った、六十代半ばと思しき妙齢の女性が座っている。それ自体は来た時にも見かけた光景だったが、彼女は足元がすっかり濡れているのにも構わず、変わらず風雨に晒されている席に居座っていた。
彼女の細い手は一枚の紙を広げて見つめており、その目は複雑そうに顰められている。周囲を気にも止めず自分の世界に入り込んでいるらしき彼女の姿は、何だか妙に心に引っかかった。
「あの」
反応はない。もう一度はっきりと声をかけると、ピクリと肩を震わせて、キョトンとした目を誠太郎へ向けてきた。
「風邪を引きますよ。よければこちらへ」
席を二つ、ずらして指し示すと、女性はようやく足元が濡れていることに気付いたらしく、慌てて荷物をまとめた。
「すみません、ぼんやりとしていて……」
「あぁいえ……雨、すごいですね」
表面をなぞるだけの会話の中、誠太郎の視線は、彼女の手にする紙に注がれた。それは、一通の手紙だった。
女性の見た目からして、手紙のやりとりを大事にしている世代であっても驚かない。けれど珍しいことに変わりはなく、自身のカバンの中にある手紙との奇妙な縁を感じられた。
「手紙ですか?」
誠太郎の言葉に、女性の目が一瞬、訝しむ。不躾が過ぎたかと思ったが、意外にも彼女は、こちらにも見えやすいよう、手紙を改めて広げてくれた。
「えぇ。だいぶ前から、やり取りをさせて貰っていて」
「私も、最近手紙を書くのですが、どうも上手く書けているか不安で……」
「まぁ、そうなのですか……。でも、私も似たようなものですよ、いつも不安
を覚えながら投函して、こうして返事を恐る恐る読んでいますから」
女性の声はか細く、ともすれば豪雨にかき消されてしまいそうなものだが、不思議と、誠太郎の耳にはよく届いた。
「手紙の相手というのは、御友人ですか?」
「いえ、妻です。……半年前に、出ていってしまいまして」
他の知り合いにすらまだ話していないことだったが、見知らぬ相手だからか、それとも彼女の言葉があまりに静かで、誠太郎の心に波風を立たせなかったからか、存外にあっさりと、口にすることが出来た。
彼女に合わせるように、自分も手紙を取り出し、封筒だけを見せる。彼女は小さく首を傾げ、じっと宛名を見つめていた。
「羽川夏実さん、というのですね。……喧嘩をしたのですか?」
「えぇ、まぁ……。私が、他の女性と食事に行ったことが許せなかったようで」
家出の理由について、本人から聞き出したわけではない。が、他に思い当たる節はなかった。
「私は、そんなつもりはなかったんです。たった一度食事に行っただけで、また行こうという約束はしましたが、それだけです。そのメールを見られて……。別に、その女性だけにそういうことをしているわけじゃありません。同輩や後輩との付き合いの一環でやっただけなのですが、向こうはそれが気に食わなかったみたいで……」
女性相手だからと付き合いを蔑ろにしろというのか。それは差別という物ではないのか。
一度だけ繋がった電話。まくしたてるような言葉遣いになってしまったが、今でも自分の言葉が間違いだとは思っていない。だが夏実は返事もよこさず電話を切ってしまい、それ以降、何度電話してもつながらなくなった。
「それで手紙を、ですか」
「返事は、まだ来ませんけどね」
完璧な夫だったとまでは言わないが、周囲の結婚している同輩よりは、上手くやれているという自負はあった。
妻が友人と旅行に行きたいと言った時も、ちゃんとその間の食事などは自分で済ませることが出来たし、着終えた衣類を種類ごとに分けて、戻ってきた夏実が洗濯をしやすいように配慮もした。食器洗いを億劫そうにしていたのにも気付いたから、専用の洗い機だって買ってプレゼントしてやったこともある。
それだけ気を遣っても、彼女は満足しなかった。こちらの釈明を聞きもせずに離れていった。けれどそれさえも、誠太郎は怒ってはいない。ちゃんとわかってくれるはずだと信じている。だからこそ、会社の同僚にさえ、妻との意見の不一致を話したことはない。きがつけば、そんなことまで話していた。
「すいません、女性の、しかも初対面の方にこんな話……」
「いいえ、奇妙な縁だと思っています」
「?」
言葉の意味が分からず視線を返すと、彼女は自身の手紙を見つめていた。手紙へ向けるその表情は、先ほど以上に複雑そうに見える。
「……何か、嫌なことが書かれていたんですか?」
女性はキョトンと目を丸くした。
「何だか、妙に悲しそうな目で見つめていたもので」
「そんな顔をしていましたか」
自覚はなかったようだが、さもありなん、と言った表情だった。誠太郎は俄然興味を惹かれた。
「伺っても?」
雨の音が更に強まる。女性は人気を探るように周囲を見回したが、席から離れはしなかった。
「この手紙は、私に宛てられたものではないのです」
女性は、手紙に目を落としながらそう言った。
「だいぶ前に夫を亡くしまして、これは、その夫宛に送られてきている手紙なのですよ」
「それは……ご愁傷様です。というと、相手はそのことをご存知ない?」
「えぇ、教えていませんから」
その声には、これまでにない力が籠っている。
「この手紙の主は、夫の愛人なのです」
誠太郎の心臓が、ドキリと鳴った。
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