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美月氏の手元で、手紙がクシャリと音を立てる。
「なぜ、そうまでして……」
「わかりませんか?」
失望したような声に、言葉を返せなかった。
何故、わざと傷つきに行くのか。尋ねられてもわかるはずもない。
その時誠太郎は、この人は今自分の後ろに、松井金秋氏の姿を見ているのではないかと思った。死んでしまった夫の代わりに、彼と同じく不貞を働いた誠太郎へ、恨み言を吐いている。否、否、あれは不貞などではない! まとまらない思考を遮断するように黙り込む誠太郎をしばらく見つめたのち、美月氏は口を開く。
「……夫の心が何故私の元を離れてしまったのか、私にはまるでわかりません。だからこうして手紙を開き、彼女との間に会った恋慕のほんの一欠片だけでも知ることが出来れば、自分に足りなかったものがわかるのでは、と思ったのです」
「嘘だ」
気が付いたら言葉が口を衝いていた。嘘? 何故そう思える、何故確信を持てる。
「す、すいません、今のは」
「いえ、いいんですよ」
幸い美月氏は機嫌を損ねた様子がなく、むしろ何故か、その表情から失望の色は消えていた。
「貴方の言う通り、今のは詭弁です。人に同情されるために考えた後付けに過ぎません。本当の私はもっと醜く、姑息な人間です。ただそれを他人にも……叶うならば私自身にも、知られたくなかったのです」
美月氏の告白の言葉一つ一つに、誠太郎は心を抉られるようだったが、何故そう感じたのかは分からなかった。
遠くから水を切る音が聞こえてくる。遅れていた電車が来たようだった。
「……彼女に、夫の訃報を伝えていない、と言ったでしょう? この娘の中では、遠くにいる愛しい人と健気な恋をしている令嬢のような気分でいることでしょう。自分がすでに没した人間へ……物言わぬ死体へ手紙を送っているなど、想像もしていないはずです。彼女の想いと、それに応えた彼の愛を察し、身がズタズタに引き裂かれるような思いに苛まれるたび、そう考えることで、私の心は晴れやかになるのです。どれだけ健気にあの人を愛していようと、お前は最愛の人の死を知る事すらない。あの人の死は、私だけのものなのだと、彼女に対して優越を感じることが出来るのです」
「優越、ですか……」
その優越感は、惨めさの裏返しではないか。金秋氏と初峯若菜の間にある本物の愛情が、自分には付け入る余地のないものであると、認めてしまっているも同然だ。だからこそ美月氏は、手紙に対して複雑な表情を見せていたのではないか。
誠太郎の心中を察したように、美月氏は笑った。
「勿論、ただの負け惜しみです」
美月氏が席を立つ。
「乗らないのですか?」と尋ねられ、首を横に振る。彼女とこれ以上席を共に
する気にはなれなかった。
「では、私はこれで。……あぁ、そうそう」
ふと何か思い立ったような顔をすると、美月氏は誠太郎へ、例の手紙を渡してきた。
「それ、差し上げます。どうせしばらくすれば、また次の手紙が来ますから」
そう言い残して、返事も聞かずに背を向けた。直後扉が閉まり、呆気にとられる誠太郎を置いて、電車は雨の中を走り去っていった。
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