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小西有子
ねえ、君は覚えてる? 僕の書斎の窓の向こうに、蜘蛛が巣を張ったという話。網戸代わりにいいでしょう、なんて僕が言ったら、君は小さく頷いていた。
不思議だな、と思ったんだよ。口にしといてなんだけど、普通の女性なら嫌がる話だったから。でも、いまなら僕にも分かるよ。君は普通じゃなかったってことが。一人暮らしだ——君はそう言ってたけれど、ねえ、そうじゃなかったんだね。あの部屋には君の母親もいたんだ。あの部屋の世帯主である「小西有子」いう名前の。
小西有子。これは君の名前でもあるね。とすると、君の母親は娘に同じ名前をつけたんだろうか。そうよ——聞けば、君はそう言うだろうね。あの少し悲しげな表情で。でも、違う。そうじゃないか? 恐らく、君は成り代わったんだ。母親を消して——「小西有子」という存在に成り代わった。だから、僕の前から消えた。秘密が知れることを恐れて。
そういうことなら納得がいくんだ。僕らの世代で流行したものを知らないことや、義務教育さえ受けていないという言葉、それにもう四十近いというのに、二十代のように若く見えること。ねえ、きっと君の母親は若いときに君を産んだんだろう。そして、どういう事情があったのか、君の出生届を出さなかった。
だから、君は透明人間だった。母親が消えてしまえば、その戸籍を君のものにするのは簡単だ。名前も年齢も、そっくりそのまま名乗ればいい。君は「小西有子」として、この世に存在することができる。
でも、一体君は母親をどうやって消したんだろう。どうやって一人分の肉を処理し、痕跡をなくしたんだろう。僕にはその真相は分からない。それが行われたのがいつだったか、きっかけは何だったのかということさえ。だけど、この世に一人の人間として存在しようとしたとき、君にはそんな方法しかなかったんじゃないかと、そんな想像は容易にできる。君という新しい存在を窮屈な部屋に押し込め続けた母親、そんな母親に成り代わり、君は初めて世界へ踏み出したのだ。
もちろん、すべては僕の妄想かもしれない。君は本当に流行を知らず、過去を忘れ、若く見えるだけの人で、姿を消したのは、ただ僕に愛想を尽かしただけなのかもしれない。
けれど、僕はそう思うんだ。窓辺の蜘蛛が脱皮をし、大きくなっていくように、君は君を脱ぎ捨て、新しく生まれ変わる。そうして、素知らぬ顔でこの世界を生きていくんじゃないかと、そんな風に思ってるんだ。
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