ゆ・で・た・ま・ご【達磨絵番外編】

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一度だけ、宮崎が怒鳴ったことがある。 マラリアにかかった宮崎を置いていかなかった時だ。 そのお陰で小隊とはぐれた。 はぐれた時に宮崎を置いて行けば藤堂は小隊についていけたのかもしれないが、そうはしなかった。 宮崎には痛みは存在しないが、熱には弱い。体だって正常である。正常に生と死の境界線を持っているのだ。 置いていけよ、と彼は何度も言った。お前までもが明日には死体だぜ、と彼は藤堂を諭したが同じ釜の飯を食った奴を見殺しにするほど腐っちゃいねえさ。そんな強がりを藤堂が呟いた瞬間に耳の鼓膜が割れるような音を聞いた。あれはきっと砲弾がすぐ近くに落ちたのだ。それでも抱えた腕を放すつもりはなかった。宮崎はバカヤロウと怒鳴った。雨のような銃弾の音にかき消されない為だったろう。だから藤堂もバカヤロウと怒鳴った。バカヤロウ、バカヤロウ、バカヤロウ。木霊のようにどちらも叫んだ。どうせ敵には姿が見えているんだ。だったら生ある限り怒鳴ろうじゃねえか。しまいには馬鹿馬鹿しくなって笑いながらバカヤロウと言った。味方の姿が見えた時にはどちらも余力など残っていなくて、干し大根みたいだったな、と日本に帰る船の中で笑い合ったのはいい思い出である。後に藤堂と宮崎の隊ははぐれた直後に全滅したことを聞き、君が今日あるのは私のお陰さ、と今でも宮崎はえばるのでその度にバカヤロウ、と藤堂は苦笑まじりにこつんと殴ってやるのだった。 まあ、単なる昔話だ。いまでもこうして付き合いがあるのは腐れ縁という不思議な縁だから、なにがあってもこうしていたのだろう、と藤堂は思う。こいつが生卵だろうが黄身返しだかなんだか解らぬものであろうが構わないのだ。きっと宮崎も藤堂が生卵だろうが茹で卵だろうが、どうだっていいんだろう。 自分がどうなるかは、自分次第だ。 自分は生卵のままでいたいと思うなら、それを実践するだけである。 なんせ生卵が、茹で卵になれるのは一回で、それになったら生になんか戻れるものか。 だから、まあ、それについて藤堂がこれ以上話すことはなかった。ただ、酒を飲むだけである。 そうする内に、御免、と店先から野太い声が聞こえてきて、主人が来たか、と陽気に笑った。どんな奴だろうか、と廊下へ顔を突き出してみれば、盛り上がった山が見えた。 言葉のあやではなく、山だ。もしくは鬼だ。 身の丈六尺はゆうに超えた、書生風の鬼である。赤味のかかった頭髪に、肩幅も横幅もある男の顔面は体に似合った鬼瓦、かすりの袴に破れた着物、全く似合っていない。大砲でもかついでいる方がよっぽど似合っているだろう。藤堂の喉の奥で、う、と変な声がした。 「藤堂君、こいつは五三河泰三というのだ。ごみかわ、ではなくいつみかわだが、悪友の内じゃあ三流河川なんて言われていてね」 「どうも、五三河です。藤堂さんの話は宮崎さんから聞いております。良かったら今後ともよしなに」 「あ、ああ。こちらこそ」 五三河は、大きな体を窮屈そうにしながら頭を下げた。上げた顔の表情は柔らかい。言葉遣いも丁寧だ。小説なんかを書いて飯を食っているからちっとも儲からない、だからこうして僕の所へ面白い話を求めてやってくるのさと、えへん顔をして笑う宮崎も、恐ろしい顔をしている五三河も、藤堂さえも、所詮見た目は卵である。 割れば出るのは生卵かゆであがった中身か。 そいつは割ってしまう事でしか、見ることのできない物なのだ。 余計な事はかんがえまい、と思った途端に、腹が鳴った。 【ゆ・で・た・ま・ご】完
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