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「失敗したなあ……やっぱり送ってもらえばよかった」  強風に負けて折れた傘を手に、全身ずぶ濡れになりながら走った。五月とはいえ肌寒い。これ以上雨に打たれたら、風邪をひきそうだ。  とにかく早く帰りたくて、近道をすることにした。  竹林に囲まれた神社の境内を突っ切って、裏から抜けると家は目と鼻の先だ。本当は回り道をしないと怒られる。神域だからむやみやたらに踏み込むな、だって。多分、それだけじゃない。神社は大賀美の屋敷にほど近い。間違って敷地に入れば、不法侵入だとおとな達が騒ぐに決まっている。  つまり、むやみやたらじゃなければいいんだ。ただでさえずぶ濡れで早く帰りたいんだから、今日は入っていい、いいったらいい。だって、ぼくにとっては緊急事態なんだから。壊れた傘をさして歩くには、家は遠すぎる。  それに、神社に入ればほんの少しでも雨をしのげる。  朱色の鳥居をくぐると石畳の参道が広がっている。脇には手水舎と達筆な文字が彫られた石碑があった。その先には地方の神社にしてはやけに立派な門があって、更に奥へと続いている。門の向こうにあるのが本殿。晴れた日に訪れると綺麗な景色だが、雨の日はどうにもうす気味悪い。ぼくの家があるのは、その本殿の裏手だ。  こっそり社務所を覗いたが、そこに宮司の姿はなかった。この雨だから、外にいるのもあり得ない。  見つかるとこっぴどく叱られるが、大丈夫みたいだ。  ほっと胸を撫で下ろしていると、けものの唸り声が聞こえた。それも、一匹だけじゃない。  何だろう、めずらしい。  ぼくは好奇心に勝てず、激しくやり合う音を頼りにその場所へ近づいた。  威嚇の声は猫でも、キツネやタヌキでもなかった。  神聖な舞台の上で喧嘩をしていたのは、二頭の犬だった。  いや、犬にしては大柄だ。ぼくの身長は百五十くらいあるが、多分、それと同じか、もしかするとそれより大きいかもしれない。そうだ、前テレビで見た、オオカミ犬に近い。 (なに、これ……)  一頭は真っ黒なからだに額に星型の模様があり、もう一頭は一点のけがれもなく真っ白な犬だった。  その二頭が、吠え、唸り、飛びついて、互いの喉元に食らいついている。鋭い牙が容赦なく体に食い込み、血が流れた。その合間、稲光が天を駆ける。  ただの野良犬のけんか――にしては迫力がありすぎた。大体、サイズからしておかしいんだ。普通じゃない。  この町にいるはずのない、野良犬の争いはぼくを昂ぶらせた。だって、野良犬は――犬は、大賀美の許可なしに、この町に放してはいけないのだ。見つかれば、すぐに駆除される。  それが、この町の掟だ。  二頭は睨みあい、毛を逆立て、牙を剥いた。白い犬が身を低くし、勢いを付けて駆け出すと鋭い爪が舞台の床を抉った。  心臓が破裂しそうなくらい、どきどきした。見てはいけないものを目撃している、そう思うと興奮したし、同時に恐ろしくなって、指先が震えた。  逃げるべきだ。もしも見つかれば。自分と同じくらいの大きさの、あんな、オオカミみたいな犬に噛まれたら。ぼくの体なんてトマトみたいに潰れてしまう。痛くて、苦しいのは嫌だ。想像するだけで腹の底が冷やっとした。  ――本当は、近寄ってはならなかったのだ。  誰かおとなを呼んだ方がいいのに、指一本動かせない。  いや、実際は動かせるのかもしれないが、その気力が湧かない。何より、両足は底なし沼にとられてしまっているかのようで、重怠い。  犬は耳がいい。鼻もきく。幸いなことに、この豪雨の中ではぼくの匂いや音が掻き消されているだろうが、この距離で身じろぎひとつでもすれば、気が付かないわけがないのだ。  ぼくは両手で口元を抑えた。そうしなければ、腹の底から恐怖の叫びがせりあがってきて、震える声が漏れてしまいそうな気がしたのだ。  そうして、ただ、目を見開いてありのままの光景を焼き付けることしかできなかった。黒い犬が、白い犬を下す様を、ただ。  それが、ぼくの運命を変えてしまうとも知らずに――。
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