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爪切り
「事故物件に引っ越したんだ」
先輩がそう言い出したのは、大学2回生も終盤に差し掛かった、ある秋の日のことだった。
「今の家を仲介してくれた不動産屋がね、管轄は違う支店ですが良い物件ありますよって教えてくれてさ。ちょうど契約更新の時期だったし、大学にも近いところだったから思い切っちゃった」
一体どんな恨みを買えば事故物件を『良い物件』として紹介されるのか理解に苦しむ字面だが、先輩は決して不動産屋から嫌がらせを受けているわけではない。
大学で同じサークルに所属する3回生の奈神先輩は、怖い話や不思議な話をこよなく愛するちょっと変わった人だ。普段はその好青年然とした振る舞いで、老若男女問わず信頼を集めている先輩だが、怖い話が絡むとガラリと様子が変わってしまい、異常なまでの執着をみせることがあった。
ちなみにサークルの活動内容はオカルトと一切関係ない。
そんな先輩は、大学に入学して一人暮らしを始める頃から、ずっと事故物件に住むことに憧れていた。
初回の仲介時から、先輩の事故物件に対するラブコールを受け続けた不動産屋は、見事3年越しで希望に応えてみせたらしい。瑕疵が生じてしまったのは勿論偶然だろうが、わざわざ他支店の物件まで継続してチェックしていた彼らのプロ精神には頭が下がる思いだった。
「2年前にお爺さんが孤独死した物件なんだけどね」
「え、孤独死ですか」
事故物件と聞いて、すっかり自殺や殺人のあった部屋だと思い込んでいた私は拍子抜けした。
後で知ったのだが、事故物件というのは明確に定義のある言葉ではないらしい。過去に自殺や殺人、事故死や孤独死などにより入居者が死亡した物件の通称であるが、死因によっては事故物件にはならなかったり、家族で暮らしていた入居者の一人が亡くなったりした場合は事故物件としては扱われないそうで、線引きが曖昧な言葉なのだという。
事故物件の概念を内包する言葉として、心理的瑕疵物件というのもある。こちらは更に多くの事象を含んでおり、住人の死亡だけではなく、その物件の近隣を含めた事故や事件、火災、暴力団の事務所やゴミ集積所などの嫌悪施設が周辺にあるものも心理的瑕疵物件とされるらしい。
過去には、入居者がそれらの瑕疵を後から知り、「最初から知っていたら入居しなかった」と訴訟を起こし、勝訴した判例もある。そのため現在では、宅地建物取引業法で定められている告知義務において、建物自体の欠陥だけでなく、心理的瑕疵についても告知を行うことが通例となっているようだ。
「発見されたのは2年も前なのに、再貸し出しまで随分かかったんですね」
ふと疑問を口にすると、先輩は良い質問だとばかりに頷いた。
「そうそう!結局は事件性なしってことで処理されたんだけど、遺体が傷んでたのと色々不自然な点があって、警察の捜査が長引いちゃったらしくてさ」
「不自然?殺された可能性も疑われてたってことですか」
「気になる?」
「……いえ別に」
「ふーん」
ニヤニヤと意味深な笑みを鬱陶しく思う気持ちは、先輩の次の一言であっさり吹き飛んだ。
「気になるなら泊まりにおいでよ。そしたら教えてあげる」
……好きな人の家にお泊まり出来る権利と、事故物件で一夜を明かす恐怖を天秤に掛けたとき、どちらに重きを置く人間が多いのだろう。
私は迷わず前者である。
先輩は異性愛者であるため、この気持ちが報われることはこの先一生無いのだが、それはそれとして片想いの相手からお泊まりに誘われて断れるほど出来た人間ではない。むしろ破茶滅茶に卑しい人間なので、許される距離感は許されるだけ享受するスタンスである。
一も二もなく頷いた私は、早速次の金曜日に先輩の家にお邪魔することになった。
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