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美夜さんの本業は保育士だ。
不思議な体験をしたのは、園児たちを連れて午後の散歩に出た時だったという。
「いつもはまだ涼しい午前中に行くんだけど、その日の朝、園の最寄駅近くの踏切で人身事故があってさぁ。人員が確保できなくて午後からになっちゃったんだよね」
初夏とはいえ、もう日差しが強く照りつける季節。子ども達にはしっかりと帽子を被せ、念の為コースも短縮することにして、美夜さんは同じく保育士の先輩と一緒に保育園を出発した。
1歳くらいの子達は美夜さんの押すお散歩カーに。もう少し大きい子達は先輩が誘導リング(ロープにリング状の取手が付いたアレ)で引率していた。目的地は、線路の向こう側にある神社だ。
異変が起こったのは、その踏切で電車の通過待ちをしていた時だった。
警報機が鳴り、遮断機が下りる。いつもなら、電車好きの男の子達がキラキラした眼差しで線路の先を見つめるのだが、その日は何故か皆じっと踏切の真ん中あたりを見ているのだ。
何か落ちているのだろうかと美夜さんも目を凝らしてみるのだが、特に何も見当たらない。
先輩の連れていた女の子の1人が同じ方に指を指していたので、「どうしたの?」と問いかける。
「あぶないよ」
女の子がそう言った瞬間、電車が踏切を通過して、子ども達が一斉に泣き出した。
いつもなら歓声が上がることはあっても、こんなに泣き叫ぶことはない。一体どうしたのだろうと美夜さんと先輩は戸惑いつつも、踏切を渡った。
子ども達の泣き声は、それからますます大きくなった。痛いとか疲れたとか、そういった類の泣き方ではない。
例えるなら、節分の時の鬼役を見たときのような、怯えを含んだ泣き方だった。中には、「こわい」「ママきて」と助けを求めている子までいる。
そして皆、明らかに今渡ったばかりの踏切の方を見て怖がっているのだ。
──自分たち大人には見えない何かが、背後から追って来ている。
そんな想像に、美夜さんは背筋が粟立つのを感じた。
早く踏切から離れたかったが、園児が乗ったカートを押して走るわけにはいかない。焦る気持ちを何とか抑え、美夜さんと先輩は目的地の神社を目指した。
神社が見えるところまで来ると、入り口に袴姿の老人が立っているのが分かった。いつもお散歩の際に顔を合わせる神主さんだ。
神主さんは走ってきた車をわざわざ手信号で止めると、美夜さん達を神社の中へ誘導してくれた。
神社の中へ入っても、子ども達は泣き叫んだままだった。ただ、先ほどまでとは違い、神社の塀に沿って、右へ左へと視線を動かしている。
状況を掴めずにいた美夜さんと先輩に、神主さんは「じきに落ち着くから、今日は少し長めに休憩していきなさい」と言った。
「ご迷惑をおかけしてすみません。さっき踏切を渡る時から、ずっとこの調子で」
「あの、何かいるんですか?」
先輩から「こら」と嗜められたが、美夜さんは訊かずにはいられなかった。だって、こうしている間も子ども達は神社の外を行ったり来たりしている何かを目で追っている。明らかに異常だ。
しかし、神主さんは質問に応えることなく人差し指を口にあてた。
「どうか口に出さず、いないものとして扱いなさい。さぁ、子どもさん達の気も逸らしてあげないとね」
神主さんはいつも通り社務所から紙芝居を持ってくると、怯えて泣き続ける子ども達に向かって、桃太郎を語り始めた。
最初は外を気にしていた子どもも、紙芝居が始まると次第に泣き止み、神主さんの方を注視するようになった。ふと外を見てしゃくり上げる子もいたが、話が終わって皆がお茶を飲み終える頃には、すっかりいつもの様子に戻っていた。
帰り際、神主さんは美夜さん達に別のルートで帰るよう勧めてきた。園長先生にも連絡を入れ(是非そうしなさい、と言われたそうだ)、今度は何事もなく園に帰り着いた。
その後、今朝の人身事故の現場が例の踏切だったことが分かり、しばらくその踏切を渡って散歩に行くのは止めることになったという。
──『踏切』了──
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