左隣

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左隣

 大学近くの繁華街にある、ちょっとした隠れ家のような地下のバー。そのカウンター席の端っこで、私は右側に座った奈神先輩から抱き付かれていた。 「ん〜!シノヤは本当に可愛いねぇ〜。お前を見てると昔実家で飼ってたコーギーを思い出すよ」 「誰が短足ですか腹パンしますよ」 「尻尾が長くてふさふさしててね、この髪の感じとか超そっくりで〜」 「聞けよ」  半ば伸し掛かるようにして、腰にぎゅうぎゅう絡んでくる腕が嬉しいよりも苦しい。  引き剥がそうという努力は、意外と強かった先輩の腕力の前に、開始5分で敢えなく散った。  普段は何本飲んでも顔色ひとつ変えずニコニコしている先輩だが、体調の問題なのか気分の良し悪しなのか、ときどきこんな風に悪酔いすることがあった。  こうなってしまうと誰も手が付けられない。一応女の子に絡みに行かないだけの理性は保っているようだが、私や他の先輩、果てはボランティアセンターの職員さんに至るまで、誰これ構わずひっついてくる。  アルコールで体温が上がったからか、先輩の肌からはエンディミオン•コロンの香りがして、くらりと目眩がした。月の女神まで惑わす気でいるのか、この人は。  ぐったりとされるがままになっている私の左隣からクスクス笑う声がして、私は更にげんなりした気分になった。 「ホント仲良しなんですね〜!」 「可愛い〜」  十数分前に同じカウンター席についたOLらしき2人組は、先ほどから私と先輩の会話を聞いてはコソコソと顔を見合わせて笑ったり、片方が化粧室から戻ってくる際にひとつ分席を詰めたりといじらしい自己主張を続けていたのだが、ついに直接話しかけてみることにしたらしい。  パール入りのアイシャドウが引かれた瞳は、上目遣いで先輩の方に向けられている。  私は適当に会釈して済まそうとしたのだが、先輩が「でしょでしょ〜!うちの子可愛いんですよ〜」なんて言い始めるもんだから、会話のラリーが続いてしまった。  全く、愛想が良すぎるのも困りものだ。  そんなんだから、いろんな子に気を持たせて苦労するんですよ。この前だって、ゼミの後輩がストーカー化して大変だって言ってたくせに。誰が追い払ってあげたと思ってるんですか。と、心中で恩着せがましい悪態を吐く。  奈神先輩が女の子を邪険に出来ない性質なのは知っているが、サシ飲みに誘った後輩よりも、年上のお姉さん達と話す方が楽しいですか?といじけた気分になってしまうのは仕方のないことだろう。  先輩のご実家のコーギーがどれだけお利口な忠犬だったのかは知らないが、私は放っておかれるのが嫌いな嫉妬深い駄犬なのだから。  話題はいつの間にか趣味の話から仕事の話に変わっていて、私を挟んで交わされる中身のない会話に舌打ちしたいのを堪える。  お二人はどんなお仕事をされてるんですか〜?なんて無邪気に訊いてくる彼女に、「この人の生業は、90分2万ウン千円で女の子を縛ったり鞭で引っ叩いたりするお仕事ですよ」って教えたら、どんな顔をするのだろうか。  それとも、顔のすぐそばにある奈神先輩の耳に噛み付いたら、先輩はこちらに意識を戻してくれるだろうか。  なんて、出来るはずもない妄想を溜め息と共に打ち消して、お姉さん方と私の間に置かれた空席のバースツールに視線を移す。  たった1席分のあざといを睨んでいたら、先輩にまだ話していない怪談で、このシュチュエーションに丁度良いのがあったことを思い出した。  職業当ての茶番が続いているのを良いことに、俺は黒服やってんすけど、と半ば強引に会話に割り込む。 「最近、黒服仲間で面白い体験をした人がいるんです。聞いてもらえますか?」
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